親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「他力本願」という言葉は、自分以外の他の力や自分の外の因縁に期待して、自分は何の努力もしないことを表すかのように理解され、そういう意味の文脈で使われてしまっている。けれど、仏教語としての「本願他力」はそういう意味ではない。何の努力もしないということではなく、努力にまつわる執着を明示する言葉なのだと思う。

 仏教の究極の覚(さと)りを「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」(無上菩提〈むじょうぼだい〉)というが、この覚りの内容を「大涅槃(だいねはん)」という。『涅槃経』では、涅槃は解脱(げだつ)でもあり法性(ほっしょう)でもあり、一如(いちにょ)でもあり法身(ほっしん)でもあり、仏性(ぶっしょう)でもあるという。こういう一連の言葉は、動きゆく意識の内容に捉えられる物事ではない。こういうことを仏教の学びにおいては、「無為法(むいほう)」という言葉で表している。

 無為法は、人間の有為(〈うい〉・時間や条件とともに動いていくこと)の行為や努力や学問では、絶対に包むことができない分位なのである。人間の限界を超えた領域なのである。けれども、人間はそういう次元の覚りに触れなければたすからないのだ、というのが仏陀の教えの本質なのである。サンスカーラという言葉は、一切の存在する物事を表わし、その移ろいゆくすがたが、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」とか「生死(しょうじ)」とかと言われるが、そういう認識を翻(ひるがえ)して、「動くことのないこと」(不動心)や時間とかかわりなく、変わらないこと(金剛心)に触れるということが、仏陀が示した方向なのである。人間の限界を超えた無限の境位を、仏智見(ぶっちけん)に立つなら獲得できるとするのである。

 こういうことを探し求めるときに、自己の限界を見定めざるを得なかったのが、浄土の教えをよりどころとした伝承なのである。すなわち、自分自身はこの世では決して覚りを開くことができないから、本願他力の如来の世界に生まれて、不変の境位(不退転〈ふたいてん〉)をいただこうというのである。こういう認識と自覚は、自我意識と努力意識でこの世が成り立っているということに執着している「常識世界」にとっては、とても理解し難いことかもしれない。そこに、「信ずることは難しい」ということが教えられるのである。

(2005年10月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...
FvrHcwzaMAIvoM-
第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説か...

テーマ別アーカイブ