親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 願心荘厳(がんしんしょうごん)の場がわれらに呼びかけるのだということを、親鸞は『教行信証』「信巻」の「欲生心」の註釈に表している(『真宗聖典』232~235頁)。このことを言うためには、すこしこのことについて丁寧に語る必要があるかもしれない。無限なる如来の大悲が、無限であることを自己限定して、有限のかたちである言葉のなかに自己の名として現れた。これを選択(せんじゃく)の本願の名号という。さらに、無限のはたらきを衆生に恵むために、あたかも有限の場所のごとくに「浄土」を建立し、そこに所属する功徳を限定して語りかけている。それを願心荘厳という。『無量寿経』の物語をこういうように解釈する伝承が、天親(てんじん)・曇鸞(どんらん)を経て親鸞に来たっている。

 そして、その場所を「要求せよ」という呼びかけを、本願では「欲生我国(よくしょうがこく)」という。その欲生我国の「欲生」を親鸞は、「如来招喚(しょうかん)の勅命」であるという。如来の国への意欲が、如来の「勅命」なのだと。それを善導は、「帰去来(ききょらい)」の慕情になぞらえて、「故郷」の呼び声であるという。人間存在の根底に、異郷にさすらう旅人が熱烈に身を焦がすほどの要求として感ずる、「望郷」のごとき志願を与えられているのだと。それを「欲生我国」という。そして、それを「回向(えこう)」のこころなのだという。如来が衆生に呼びかけ続ける根源からの欲求こそが、真に衆生に与えられている救済への大悲のこころの表現なのだと。

 その場所を代表する荘厳が「不虚作住持(ふこさじゅうじ)功徳」である。偈文(げもん)では「観仏本願力(かんぶつほんがんりき) 遇無空過者(ぐうむくかしゃ) 能令速満足(のうりょうそくまんぞく) 功徳大宝海(くどくだいほうかい)」(『浄土論』、『真宗聖典』137頁)という。仏の功徳とは、その本願力をこころに浮かべ見るなら、もう空(むな)しく過ぎるということがなくなる、そして功徳の大宝が凡夫の身に満ち満つるのだ、と親鸞は註釈している。仏の場所の功徳が、それを念ずる衆生に来たって、心身に満足成就の感動を与えるのだというのである。

 そして、その功徳を総合して把握するがごとくに所持するものが、名号となった願心の意図だというのである。名号が「功徳の大宝海」だという。場所全体が名に総合されて、われらの信心の内に帰去来の意欲を恵みつつあるというのである。名となって衆生の故郷というべき場所を、異郷に生きる実存の根源に与えようというのである。

(2006年7月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...
FvrHcwzaMAIvoM-
第252回「存在の故郷」⑦
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第252回「存在の故郷」⑦  「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻、『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕初版87頁、第二版94頁)とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説か...

テーマ別アーカイブ