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濁浪清風
意欲の異質性を自覚せよ、と。――願のままに成就しているとは(5)

  そもそもこの愚かな人間が、完全な存在になりうると考えることは、大きな間違いであり妄想でしかないのであろう。釈尊が成仏したということを、この妄想の中であたかも理想的な存在になり得たのだと受け止めて、その「さとり」を追体験するべく歩んだことから、仏弟子達の悪戦苦闘が展開してしまったのではなかったか。仏陀が如来として覚った法を、人生を尽くして表現して下さった。それを弟子達が仏滅後に、その仏の説かれた法を憶念し編集したことから、経典の内容が歴史に残ったのであった。

  その基本には、存在を「一切皆苦」と感じてしまう事実がある。その事実の根底に自我の執心があることを自覚し、それを妄念と見てそれからの脱出を試みたのが仏陀であった。その自覚には、妄念を払拭すれば必ず苦悩からの脱却が与えられるという確信があった。妄念から脱却できた体験内容を、さまざまな譬喩などで語りかけられたのであろう。

  しかしながら仏弟子達にとっては、その教えをそう簡単には追体験できなかったのであろう。
  そこに悪戦苦闘の自力の努力が始まり、仏陀が理想化され仏道とはその理想を追いかけて、その理想像の具現化を求めることになっていったのではないか。それを根源から見直す運動が大乗仏教運動となったのではなかろうか。

  現実の人間の情況は、『大無量寿経』下巻に展開された三毒五悪段と名付けられる文章に、見事に表現されている。端的には「五濁悪世」と言われることである。人間が煩悩を具して生まれてきて、その煩悩を増長しつつ歴史や社会が展開しているのである。その三毒五悪の文章の狭間に、独り善を修すればその煩悩の結末たる三悪道を超えられると書かれている。これによって、清沢満之はこの段を「善悪段」とすべきかと言っている。彼はこの経文が、悪世のただ中にこそ仏道を歩む道が開けてくるのだということを、この『大無量寿経』が語っていると見抜かれたのであろう。悪世のただ中でこそということは、この五濁を厭うのではなく、むしろこれを逆縁としつつ歩むべき道があることを暗示しているのではないか。

   親鸞は、『愚禿鈔』において、「厭離」による浄土願生を「自力の心」であると見ている(聖典438頁参照)。いわゆる浄土教の主流となった「厭離穢土 欣求浄土」を、善導のいう「自利真実」の内容と見て、「厭離」も「欣求」もいずれも自力の心と見ているのである。それは自力心が五濁を厭い、それから離れて救いがあると見る立場だからであろう。(続) (2020年1月)

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