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濁浪清風
横超の大誓願(4)

  親鸞は我ら凡夫の信心の根拠を、法蔵菩薩の大菩提心に由(よ)るとし、立っている立場が「よこざま」になぎ払われるようなイメージで、その根拠を自覚化せよと示された。立つ瀬がなくなるということがあるが、言うなれば、我らは凡夫ではあっても一応は自分で立っているつもりだが、その立つ瀬がまったくなくなるような自覚なのだ、というのである。このことを、明確にするために、常識を竪(たて)と表し、願力を横として表した。

  この横からなぎ倒されるような圧力に出遇(あ)うことには、いかなる機縁が必要条件であるのか、またそのことによっていかなる事態が与えられるのか。第一には、凡夫にとって本願力に出遇うということは、決して簡単なことではないということがある。このことは経典には「難中之難無過此難〈難(かた)きが中に難し、これに過ぎて難きことなし〉」と言われているし、親鸞も「正信偈」で「難中之難無過斯」と押さえている。出遇いが常識の範囲であれば、これに出遇うことは容易であろう。常識ではないことを「よこざま」と表したのであるから、この願力との値遇(ちぐう)は容易であろうはずがない。

  ではその出遇いとは、いかなる場合に起こりうるというのか。この値遇の原理を解明すべく、親鸞は「信巻」でその原理を、あたかも外側から無明の闇にはたらく力や光りのごとくに論じている。その場合の内側とは、我ら衆生の煩悩でくらまされている闇の意識である。無明の闇と願力の光りの角逐(かくちく)が、法蔵願心の「兆載永劫(ちょうさいようごう)」のご苦労だというのである。

  つまり、法蔵願心のお目当ては、罪業と無明で救済が困難な凡愚だというわけである。法蔵願心が相手にしようとする「煩悩成就の凡夫、生死罪濁(ざいじょく)の群萌」(証巻)とは、我ら自身のことなのである。この煩悩に深く覆われ、我執に取り付かれている存在を、間違いなく真実の存在の真理(すなわち大涅槃)に目覚めさせようという願いを自己の欲願に据えて、それを必ず成就させようとするのである。その成就に当たっての困難さを、時間的な長さとして「兆載永劫」と表現しているのだというのである。言うなれば、凡愚の側には出遇いに必要な条件は要らないが、大悲の広大なはたらき(兆載永劫の修行)に感動することのみが待たれているということなのである。

   願力との値遇といわれる出来事は、実は我らがその大悲の光明海のなかにすでに収め取られているという気づきの出来事を言い当てている事柄だったのである。その事柄を、教えを通してしっかりと聞き当てようではないかというのである。(続) (2018年9月)

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