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濁浪清風
「願に生きる」ということ(6)
   真実の信心には、「信の一念」という意義がある。その本願成就の「一念」の内実に「前念命終 後念即生」という意味を聞き開いたのが、善導であった。この一念を単に臨終の一念とするのでなく、平生の信仰生活に見いだしたのが、親鸞の『愚禿鈔』にある「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり」(聖典、430頁)である。それを曽我量深は「信に死し、願に生きよ」と受け止められた。

  「信に死し」という信念の表現は、普通に生存していることをやめるというのではなかろう。この生存を自分の思いの通りに生きていきたいと思いながら、自分の自我心に縛られて少しも自分の思いが通らない。「信に死し」とはそういう生活から解放されること、すなわち無明による苦悩の生存の終わりを意味しているのであろう。換言すれば、自力心に死んで他力摂取の心光に生きる、と言ってもよい。「死して生きる」という表現の次第は、現実には煩悩の生活に悪戦苦闘している事実に気づくとき、他力摂取の教えを思い起こすという次第を表している。

  そして、「願に生きよ」ということには、本願に照らされつつ信心の生活を自己自身に問い直して生きて行く方向を示している。だからといって信じた上での生活であるなら、有限の分限を超えて生きられる、と言うわけではない。蓮如に「信心の溝をさらえよ」という言葉がある。我々の凡夫たる根性は、信心を得たつもりでも日常生活のなかに、たちまち本願との関わりを失わせてしまうのである。そのことに気づいて本願に立ち帰れ、というのである。

   信念の事実には、一念同時ということがある。たとえば、菩提心には「自利利他」という課題がある。その場合も菩薩道では、自利から利他へと歩むのであるが、菩提心が成熟してくると(十地の次第では八地以上)、自利利他が同時交互に成り立つ。『浄土論』に表されている菩薩功徳がそれである。

   他力信心の生活にも、本願他力を憶念してこそ煩悩生活を懺悔することができるということがある。自力執念の深さは、他力の心光摂護の中においてこそ気づくことができるのであろう。この場合には、「死して生きる」という次第が転じて、「信心に生きてこそ苦悩の生に死ぬことができる」という事実が起こるのである。すなわち、光の場に生きることで、闇の生に死ぬことが成り立つのである。本願成就の信は、それを生きることで死ぬことが成り立つとも言えるわけである。親鸞が「信巻」において善導の「横超断四流」を釈しているのが、そのことであると言えようか。(続く) (2020年12月)

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