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濁浪清風
「願に生きる」ということ(10)
   如来の大悲とは、「おおいなる悲しみ」である。「無縁」であるとは、「縁なき衆生」をも摂して捨てないのである。ここに「おおいなる」というのは、「限りなく摂取しよう」とする存在の、有限の条件を破る深い意図を示そうとしているのである。我ら凡夫の有限の発想を、深く悲しみつつ静かに待ち続けようとする、見えざる意思とでも言うべきであろうか。

  そもそも「如来の大悲」というときの「如来」とは、「おおいなる願心」の主語のごとくに見えるが、実は主語という文法上の言葉が、我ら凡夫の発想に付帯する制約・限定を語っている。「おおいなる」とは、主語無くしてはたらくこころ、すなわち見えざる意思を言い当てようとしているのである。その見えざる深みのはたらきを、「大悲の本願」として表現するのが、『大無量寿経』の物語なのである。

  これを文字通りに、見える形として我ら凡夫が受け止めようとしても、それは必ず無理なゆがみを伴うのである。有限な見える限りの発想でとらえても、それなりに有限の限界をちらつかせながらも、なにがしかの意味を開示しようとしているには違いない。その限りにおいて、我らが願心に随順しようとする場合には、有限の限界に引き留められて、その壁を越えられないという有限の悲哀を惹起するのである。

   この見えざるおおいなる悲願を一身に担って立ち上がる名が、「法蔵菩薩」である。その名は、見えざる願心を言葉で具体化するための自己限定、すなわち無限が有限に形を示してくる自己限定でもある。物語として表現する場合に、時間的には「五劫思惟」とか「兆載永劫」の修行というように、無限なるものを一応あたかも限りある因位のごとくに示している。そして「すでに正覚を開いて十劫を経ている」とも言う。因の修道が無限大の時間なのに、果の正覚を開いてすでに十劫も経っているというように、その物語自身が我らには理解不可能なのである。このように無限の側が、大悲を呼びかけようと自己限定して、有限の表現になろうとしても、我ら凡夫には、つじつまの合わない物語と映ってしまうのである。

   この限界を内から打破して、「法蔵願心」に同感するまで物語を聞くことが、いわゆる「聞法思惟」として、有限の我らに分限を自覚せよと迫っているのである。この聞法の呼びかけに、我らの迷いの底からいわば名のり出るごとくに、「法蔵願心ここにあり」と発起してくる事実を、親鸞は「金剛心成就」のかおばせであると感得されたのではないか。(続く) (2021年4月)

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