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濁浪清風
意欲の異質性を自覚せよ、と。――仏果からのはたらきかけ(3)

  因から出発して果に向かって歩むという仏道の導き方は、受け取った側は必然的に段階的に自己を高めていくということになる。『華厳経』の十地の説き方がその典型であろう。曇鸞はこれを方便の教え方だと見抜いた。仏の覚りは、ある意味でトンネルの出口で一挙に眼前が開けるように、迷ってきた意識の闇が、夜が明けるように明るくなることだとされる。それを、努力によって少しずつ汚れを落として磨いていくような説き方は、確かに一種の方便なのであろう。

  迷っている凡夫を因から果へと導こうとする教え方では、結局迷いを晴らすことができない求道者が続出する。多くの求道者の嘆きを引き出してしまうことになる。大乗の仏道が、あらゆる衆生に仏弟子として果徳を開くことを要求するとき、仏陀の側からの教え方に一大転換が起こった。大悲の願心からの手助けを縁として、衆生に平等の覚りを開かせようという方向に気づいたのである。

  この発想が大乗の僧伽に刺激を与えて、無限なる光明と寿命の大悲の名告りを、因位の願に解きほぐして衆生に呼びかけるという内容が、経典として編纂されるようになっていった。そう考察することができるのではないか。この発想は、いわゆる菩薩の総願、たとえば四弘誓願のような願を、衆生が自分で発すという発想ではない。総願でいえば、「あらゆる衆生を必ず度脱させよう」という第四願が、仏果から立ち上がった大菩薩の願として歩み始めるということであろうか。

  『無量寿経』の本願は、このような発想をいかに物語として展開するかという試行錯誤の結果、展開してきたものなのではないか。本願の数が、翻訳された<無量寿経>の間で異なっていること、たとえば、『大阿弥陀経』では、二十四願となっているのも、こういうことで領解が可能となるであろう。そして、康僧鎧訳の『無量寿経』に来たって、四十八の内容に整理されてきたのでは無かろうか。だから、同じく誓願とはいっても、法蔵菩薩の願は、ことさらに「別願」なのであると言われているのであろう。願であれば、因から果へということなのだが、この別願は、実は果から因へ(従果向因)と、一般の願とは方向を転じて語りかけていると言われるのである。だから、願ではあるが、願のままに成就の力を保持しているとも言われるのである。(続) (2019年11月)

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