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濁浪清風
自然の浄土(1)

 『無量寿経』が語りかける「浄土」の教えが、長い年月にさらされ風土化した日本の仏教文化のなかで、生きている人間存在にとっての積極的なはたらきを失い、死後の救済の場所になってしまっている。このことが、いつごろから起こってきたのかはわからないが、本来の意味の仏教の教えの内容と、直接に因果関係がある考え方だったのだろうか。本来の仏陀の教えとは言えないのではないか。しかし、その関係が無関係であるとも思えない。私は、むしろ仏教の側が、一般の死後の観念界の闇に明るみを投ずるべく、本願の教えとなって「お浄土」を語りかけたのかも知れないとも感ずるのである。
 生老病死(しょうろうびょうし)の四苦(しく)といわれるが、死はそのなかでも生存在の終点であるから、死を苦しむというよりも、われらは死ぬことを畏(おそ)れ、その死の先が見えないことの不安におののくのである。死それ自身を苦しむのではなく、死ぬであろうことを不安と共に悩むのである。その不安の先の闇に、いささかの安心感を与えたいという慈悲心が、その先にもこの生存と同じような時間空間があって、その時空が特別の安らぎの場所であると語って、不安を少しでも減少させようとするのであろう。
 たとえ、この生存情況が悪業(あくごう)の因縁に満ちていて、生まれて死ぬまで「五逆十悪(ごぎゃくじゅうあく) 具諸不善(ぐしょふぜん)」であり、悪業の限りを尽くした人間であろうとも、仏陀の前に身を投げて臨終の救済を懇願(こんがん)したならば、たった一声でも仏陀の名を念ずれば、浄土に生まれられると説くのは、まさにこの地獄の苦悩を予感する不安からの解放を教えているものであろう。
 この『観無量寿経』の説いている臨終の往生浄土の教えが、圧倒的な説得力をもって、仏教の土壌に死後の浄土の観念を植え付けてしまってきたのであろう。しかし、この教え方に、仏陀の慈悲を仰ぐことに共感しつつも、それは衆生を導く方便なのだと見抜いたのが、親鸞であった。
 その気づきの端緒(たんしょ)は、おそらく天親菩薩の『浄土論』を読み込んだ経験だったのではなかろうか。『浄土論』では浄土荘厳(しょうごん)を、二十九種の内容に整理して表している。そしてその功徳の言葉(句)が、願心の表現であり、それが浄土の内容だといっている。その願心とは、経典に帰せば、『大無量寿経』の本願である。だから、二十九句は、法蔵願心の大誓願なのである。「横超(おうちょう)の大誓願を光闡(こうせん)す」(正信偈)と言われるゆえんである。
 『大無量寿経』の本願の表現に「臨寿終時(りんじゅじゅうじ)」ということがあって、この世が終わるときでの仏陀との出遇いを語っている。これと『浄土論』の純潔な荘厳功徳(くどく)との落差をいかに解釈すべきなのか。親鸞の疑問は深かったのであろうと思うのである。(2012年4月)

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