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濁浪清風
自然の浄土(6)

 仏教は因縁の道理を具体的に体感した事態を、「一如宝海(いちにょほうかい)」と教える。「一如」は、凡愚の人為的な意識分別が作用する以前の、本来の自然な因縁そのままの、ありのままのあり方を仏陀の智恵が言い当てようとする表現であろう。因果の必然性のみの関係が、この世の存在を牛耳ってくるのだと考えることに対し、存在の事実は「縁」を待って、縁と共に動いていくものであることを語りかけるのである。因のみの内面にその特質を探っていくのでなく、いわば因を動かしてくる運命的な「縁」の面が因には付いているのだ、という智見の表現なのである。
 仏教(唯識)では、その縁に四種を数えている。四種とは因縁・増上縁(ぞうじょうえん)・所縁縁(しょえんねん)・等無間縁(とうむけんえん)である。それぞれの縁の意味を探ることは、この場では避けるが、ここの第一に「因縁」とあるのは、因には縁という面があるという考え方である。因それ自体ということはない、という指摘でもある。因と言える事柄が起こるのには、必ず起こるべき縁があるのだから、因それ自体が縁でもあるというのである。
 この思考法と、存在には必ず場所が必然的であるということとも、深く関わっているのではないか。「有る」ということは、空間的な場が与えられるという「もの」の「有」の条件だけでなく、すべての「こと」にも、必ずそれを取り巻く「関連」性が与えられている。関連を切って、「因」という事態があると考えるのは、仏陀の智見からすれば、「我見」なのである。つまり、存在の事実を分別で切り取ってくる考えで、「因」それ自身を設定しているということなのである。
 この「因」それ自身を設定する論理は、たしかに自己の外部の事柄、とくに生命を伴わない自然界のことについて、大変大きな部分を説明できる。これがいわゆる自然科学を成り立たせ、科学が発見した自然界の理法を応用した科学文明の便利さを作り出したのである。
 しかしながら、この論理は、具体的な一回限りの生命を今ここに生きている自己自身の事柄を納得しようとするときには、ほとんど役に立たないのである。なぜ、今ここに「自己」が生きているか、という自己を問う意識にとって、「因」それ自体を設定して、対象的に他物を説明する論理をもってきたのでは、求めている答えにならないのである。自己自身を「因」とするなら、「因」それ自身が起こるところに、運命的な縁があるという論理が入らないなら、切り取られた因の必然性は独断論的に決めつけるしかない。それは自己を問う問いの本質に、まったく届かない答え方なのである。
 「縁」を受け入れることによって、因たる自己は、意識できないほどの無数の縁によって与えられた「因」なのであり、無限の縁の支えによって成り立っている自己なのだ、ということが見えてくるからなのである。(2012年9月)

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