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自然の浄土(8)

  『無量寿経』の法蔵願心(ほうぞうがんしん)が建立する浄土を、『浄土論』では「願心荘厳(がんしんしょうごん)」と表現する。『阿弥陀経』では「功徳荘厳(くどくしょうごん)」と繰り返されているが、願心によって荘厳された「功徳」のかたちを、二十九種荘厳功徳(にじゅうくしゅしょうごんくどく)として表現しているのである。願心が衆生に一如(いちにょ)の功徳を、大悲を通して場所として表しているというのである。
 この場所的表現を方便法身(ほうべんほっしん)と曇鸞(どんらん)は言う。「法性法身(ほっしょうほっしん)に由(よ)って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出(い)だす」(『教行信証』「証巻」)と言い、「この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず」(『教行信証』「証巻」)と言う。極楽国土とも言われる阿弥陀の浄土であるが、それは法性法身(法性・真如・一如などと同義)を言葉に依(よ)って表現したものであり、それは形なき法性と一であるが、形を取った限り同じとは言えない。しかし、異なるものかと言うと、分けられないものなのだ、と言うのである。荘厳した限りでは、教えのために形を取っているのだが、形のない一如が、衆生のために形になったのであって、それを実体だと固執してはならないというのである。
 親鸞聖人が「権実真仮(ごんじつしんけ)をわかずして 自然(じねん)の浄土をえぞしらぬ」(『浄土和讃』)と和讃されているということは、浄土として教えられていることも、願心の形であってこの世に実体として実在することではない、ということであろう。教えであることを忘れて、言葉が語るように実体として実在するのだ、と固執しないと浄土教の立場が無いように思っているのは、まさに「権実真仮」を知らない立場なのであると言えよう。
 仏教の教えは、人間の問題が執着することにあることを、徹底的に指摘するところに特徴がある。すべての教えはどうしても、正しさとか真実とか言う言葉の下に、自己の主張する思想なり信念なりを固く執着していく傾向が強い。仏教は、極力その姿勢に潜(ひそ)む妄執を自覚させて、本来の自由な解放された存在の柔らかさを回復させるところに、大きな意味があるのではなかろうか。
 親鸞聖人が「自然法爾(じねんほうに)」を語る法語において、「みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり」(『末燈鈔』)と語ったとされることなどは、名にとらわれ、言葉を実体化してしまう凡夫を、おおらかな大悲のはたらきに溶かしてしまうような力を感ずるところである。願心が荘厳する場所的空間も、この自然法爾を知らせんがための方便なのであるということであろう。だから、自然の浄土というも、人間の自由でおおらかな存在の本来性を、取り戻させるための表現なのであろうと思うのである。(2012年11月)

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