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濁浪清風
自然の浄土(9)

 存在の本来性を、衆生(しゅじょう)に知らせんがために、形なき法性(ほっしょう)を言葉に表現するということ。このことは、「弥陀仏のよう」とか「方便法身(ほうべんほっしん)」となった報土のみに限られることではない。そもそも、一如(いちにょ)とか涅槃(ねはん)とかを、衆生にとっての本来帰るべき本来性として教えるというところに、形を破って形を越えてはたらく、「なにか」を感受する人間の特質があるのではないか。それを「神」とか「ほとけ」というような言葉を通して、あたかも形となって存在の根源から作用するもののごとくに伝承してきたのが、神話化した宗教だったのかもしれない。シッダールタは、それが却(かえ)って人間を縛るような実体的なものであるとして、その解体のために勤苦(ごんく)六年といわれる苦労をされたのではないか。
 その結果、生きることに傷つき苦しむ自分自身の根源に、自己を実体的なるものとして執着する心理作用があることに気づいて、これこそが人生を不安と苦悩に沈めている根本原因なのだと理解した。すなわち、自我の執着こそが、人間の根本問題なのだと見抜いた。そして、この自我の執着から解放された明るみを、深々と味わう智恵を「さと」ったと言われているのである。ここに、人間の帰るべき本来性があるのだとして、これを一切の人類が獲得すべき智恵として、この明るみを教えるべく言葉を紡ぎ出したのである。
 自己は自我なのではなく、因縁所生(いんねんしょしょう)のいのちである。それを実体ある個我だと思い込むことは、無始以来の無明(むみょう)によるというのである。無明とは自我の実体化について、気づくことのない意識のありかたである。しかし、無始以来と言われるからには、その妄念(もうねん)は、ほとんど解体不可能なほどに深く自己の奥底にへばりついている。これを解体すべく、如来は種々の論理や言葉を駆使して教えられた。
 人間は、言葉と論理には、ある程度訓練によってなじんではいけるのだが、存在の奥底にへばりついている執念のような無明を引きはがすことはほとんどできない。そこに、仏教の歴史が、人間存在の本来性を求めて種々の方法を探し求め、真実に人間が解放される方向を実現すべく歩んできたのであろう。
 その苦悩の深さと妄念の強さを見通した諸仏如来の智恵は、仏教の求道(ぐどう)の歴史の始原に、無明に気づかせるような、存在の本来性そのものの自己回復意欲のごときものを、「如来の本願」として説き出すという方法を発見したのではなかったか。『無量寿経』の教主が、「仏々相念(ぶつぶつそうねん)」の喜びにおいて、「光顔魏々(こうげんぎぎ)」と輝いたことは、それに諸仏が賛同するような根源の意欲を見いだしたことを表しているのではないか。(2012年12月)

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