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濁浪清風
自然の浄土(11)

 衆生(しゅじょう)の因位(いんに)に植え込まれた本来性への意欲が、衆生を聞法(もんぽう)の生活へと誘引する。この方向を教導するために、本来性を「存在の故郷」として象徴的に表現する教えが説き出された。この方向を物語として説くことを、諸仏如来(しょぶつにょらい)が皆一様に賛同すると言われる(『阿弥陀経』)。その意味は「濁悪邪見(じょくあくじゃけん)の衆生」に一如法界(いちにょほっかい)への目覚めを、「恒沙(ごうじゃ)の諸仏が勧める」ためであると言う。衆生は五濁悪世(ごじょくあくせ)を環境とするので、一如法界が求めにくいからであろう。
 そのために、あたかも太陽が沈んでいく西方(さいほう)に「清らかなすばらしい空間」があるかのごとくに語りかける。これは存在の故郷を、衆生がそこで滞りなく仏陀の教えを聞く生活ができる環境を与えて、衆生を仏法へと方向づけていこうという教え方なのである。この方向の意味を親鸞は、「自然(じねん)の浄土」と表現されたのである。この自然は、衆生に「自然のよう」を知らせんがための「阿弥陀」の浄土であり、それは「方便法身(ほうべんほっしん)」(形無き法身を衆生に呼びかけるための形となった法身)であると、曇鸞(どんらん)大師が言われたのである。
 恒沙の諸仏とは、一切衆生の成仏の可能性(仏性)の反映であり、また一切衆生を限りない方便で育て導く縁を象徴するはたらきの表現なのではないか。和讃で「百千倶胝(くてい)の劫(こう)をへて 百千倶胝のしたをいだし したごと無量のこえをして 弥陀をほめんになおつきじ」(『浄土和讃』)と詠(うた)われているのは、このことを暗示するのではなかろうか。無限の時間を通し、無量の人々の言葉を通し、種々各別の表現や言葉遣いを通しながら、弥陀の大悲を誉(ほ)めていくのであるが、それでも十分に言葉で詠い表し尽くすことはできない、ということであろう。
 言葉を使う衆生を「舌」、すなわち口業で導くということに、方便法身の大きな意味がある。人間存在が言葉をもつことで、文化を生み出し文明を作り出してその恩恵を受けながら、同時にその言葉に縛られ苦しめられるのも人間の根本の問題である。この問題には、言葉でもろもろの存在の関係を言い当てる智恵が、必ず言葉がもつ抽象化と特定の意味づけへの傾向性を内在させていて、それに衆生が引き込まれてしまうということが付随しているということなのである。
 このことを大乗仏教は人間の根本問題が「法執(ほうしゅう)」にあると見抜いて、我執(がしゅう)からの解脱(げだつ)にのみ問題を限定したそれまでの仏教の教えの限界を、突破していこうとしたのであると思う。このことを親鸞は、言葉でおしえのかたちをしっかりと了解する大切さを繰り返して語りかけながら、最後の押さえには「義なきを義とす」という師法然の言葉を置いて確認しているのである。浄土への如来からの呼びかけを「勅命」とさえ言いながら、その浄土の本質は「方便法身」なのであり、「法執」を破った「自然」のありかたへの誘引であるということを忘れてはならないと思うのである。(2013年2月)

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