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濁浪清風
 宗教的なことを語る言葉は、いうまでもなく宗教的な体験を、ある意味で日常的な文脈に置き換えて表現している。それを日常的な体験のみの連続であると錯覚すると、対象化できないはずの大事なものを、対象化されたかたちで執着することにもなる。
 私たちの生きている場面は、それぞれの深く長い背景があり、他人にはとうてい伝えられないほどの事情や内面がある。個人が、ここにいま存在することの大切さは、他人には語り得ないような背景を背負っているというところにある。けれども、個人がお互いにその特別な自分の意味や事情に閉じこもってしまうなら、人間として、人と人の間に生活することの喜びも悲しみも、わからないことになる。現代の生活が、人間に孤独感を与えてやまないのは、個人が自分の大切な場所を、他人から切り離してつくっていけるような雰囲気があるからではないか。
 近代文明の社会生活には、個人の自由がなによりも重んじられる、という。たしかに一時代前からしても、現在は個人の生活がいろいろな束縛から、かなり解放されたに違いない。それにもかかわらず、現実に私たちはいま生きていることに、自由な選びがあるなどとはとても感じられない。それどころか、中途半端な可能性の間に、なにか不安をもよおす縛(しば)りが感じられてならない。
 われわれ個人の存在をよくよく内観してみると、自分という一個のいのちは、その初めから自己の自由な決断などで生まれてきたものではないのである。明らかに無数の因縁の結合から、たまたまいまのこの自身が与えられてきたのである。そして、生まれてからも、育つ状況や時代も、家庭や教育環境や友人なども、たまたま出会って与えられてきたというほうが正確であろう。自分の選びといっても、与えられた状況の一部にすこし可能性があるのかな、という程度なのではないか。そういう存在を、投げ出され流され転がされるような存在だと自覚したのが、「流転(るてん)」の存在という仏教の存在認識なのである。
 この「流転」という言葉も、実はそういう深い自己の自覚から、「流され転がされる」ようないのちを、表しているのである。(2004年7月)
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