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濁浪清風
宿業を大地として(1)

  「業」(カルマン)という言葉には、さまざまな意味がある。大まかに言うなら、迷いの意識が動くところに、かならず苦悩の結果が引き起こされるということを、迷いの「行為・経験」がもつ本質として言い当てる言葉が「業」であると言えよう。惑・業・苦という次第がここから言われるからである。無明に覆われた意識(惑)が、行為(業)を起こすことによって、必ず苦悩の現実が与えられてくるということである。
  現実のわれらの生存が、それぞれ他とは異なる独自の個の生命体として、ここに現在する。類として多くの存在が同じような命を生きているのではあるが、個はやはり他には置換不可能な存在である。この個の生存の由来する原因を求めようとするとき、究極的にその根本原因を探り当てることはできない。たとえ両親にその近い原因を求めて見ても、両親もまたそれぞれの両親から生存を与えられて来ているのであり、それを遡(さかのぼ)ってみても、窮極(きゅうきょく)の出発点には辿(たど)り着けないからである。それに、それらには多くの因縁の関わりや重なりが加わっているのだから、特定の原因と言うべきものの決定など不可能なのである。
  そして、現在の個人の両親から、兄弟姉妹が生まれた場合、同じ両親であっても、まったく異なる個体が与えられるのであり、その場合、その個体の異なりの原因を両親に帰属することはできないであろう。やはり、個の根本原因は、個体それ自身の存在の必然性の背景に求めざるを得ないのである。そこに、自己の生存の背景に不可思議の「業」の背景を感得してきたのが、インド由来の業感の生命観なのではなかろうか。
  そして、業という言葉は、単なる行為を意味することもあるし、この業感の背景を言い当てることもある。この自己の存在の歴史的背景ともいうべき重さの面を表現して、「宿業」と言うのではないか。「宿」の字は、過去世を意味している。過去世とは、物語的には前世であり、今の生存として生まれる以前に感じられる自己の背景の過去の時間を表している。
  このことの実存的な意味は、この現在の個体としての存在が、自己独自の行為経験の結果引きおこされているという「生存の責任感」であると、安田理深師は言い当てられた。この場合の責任とは、行為の結果を言う倫理的責任ではない。現在の存在の由来の深い背景が、自己自身にあるという自己の存在根拠に対する責任感である。
   確かに人間存在の現在には、「自由」という面が与えられている。しかし行為の選びは、与えられている条件のなかに限られている。条件を離れて、行為は起こせない。この条件を「宿縁」とも言われているのである。そして、起こした行為の結果は、行為者に乗ってくる。行為には必ず結果を引くはたらきがあるので、行為を「業」というのであろうかとも思う。 (2016年6月)

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