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濁浪清風
宿業を大地として(2)

  自己の存在の背景に宿業と言われることがあり、そこに実存的責任があるとするなら、私たちはこの限定を誰も逃れることはできない。それによって現実の情況が与えられ、個人の存在の情況を規定されているということにもなる。時代状況や社会的な事情も、たしかに個人がその事態を担って生きているのであるから、その個人の宿業であるとされる面もあるに相違ない。しかし、ここに考察しなければならないことは、個人の実存的責任ということと、歴史や社会構造をつくっている人間存在の共同責任とも言うべき事柄とがある、ということである。
  ともすると、そこには存在情況のすべてを個人の宿業、つまり個人の実存的責任に帰属させてしまうという発想があるのではないか。これは現実の社会問題の矛盾や政治的な不条理に目をつぶり、人間の営みとしての共業(ぐうごう)が作っている虚偽性を押し隠して、個人的責任に帰して言い逃れる原因にもなってくる。実際に宿業という思想が、階層社会の種々の差別を温存させる機能を果たしてきたことが、この言葉のもつ実存的真理性をも疑わせることになっている面も否定できないであろう。
  仏教は、「無我」を存在自体の事実認識として掲げている。このことは、ある意味で、現実を生み出す原因も、現に与えられている事態も、それを固定すべき理由はさらにない、ということの宣言である。惑・業・苦の因果からの解放を求めるなら、行為経験を引き受ける「自我」は無いと自覚すればよい。無我の自覚で、苦悩からの脱却が可能だということである。換言すれば、業からの解放を、責任主体など無いと認識することで達成しうるということである。ここから、仏教とは業思想からの解放を主張するのだ、という見方も出てくることになる。
  仏陀が出家することを求道の根本条件として教えるのも、生まれによって規定される社会的地位からの脱出を基本に据えるのだ、と見る見方もありえよう。しかし、出家発心(ほっしん)を仏教の根本条件とするなら、社会的な差別的情況に苦しみながら、それを脱出するすべを見いだせず、困難な命を生きている大多数の衆生を救済から排除することになるのではないか。大乗仏教が興起せざるを得なかった歴史的必然には、一切衆生にかけられたはずの仏陀の慈悲への止むに止まれぬ要求があったのではないか。一切衆生に仏道の真理性を訴えるためには、根源的に存在を規定している宿業の実存的意味を否定するのでなく、しかも不条理や社会的差別を超えた平等の存在解放を明らかにしなければならないのではないか。さらに言うなら、たとえ形は出家してみても、存在を規定している諸条件から自由に成れるものでは無い。現実に、日本の比叡山などでも、貴族の出自をもつ者が、出家教団を牛耳ることが起きてしまっていたのであるから。(2016年7月)

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