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濁浪清風
宿業を大地として(3)

  仏教では、業について先に述べた二面、つまり社会的な責任において考察されるべき面と個人に帰属されるべき面をわけている、と考えられる。共業(ぐうごう)と不共(ふぐう)業(ごう)ということがあるからである。共業は、広く生命に共通する過去世の背景を言い当てようとするから、その範囲が判然とはしていない。生命であるかぎり、いのちの営みとして共通するような面もあろうし、類(獣類とか鳥類のごとく)として共通する本能と言われるような事柄もあるだろう。さらには、人類にあっても民族としての共通性とか、同時代の社会から受ける影響の共通性などもありうる。
  特に、現代の文明社会に共通するさまざまな人間社会の共同責任と言うべき課題は、しっかりと見つめられなければならないであろう。人間とは「間的存在」であるとも言われ、ハイデッガーは「ツヴィッシェン・メンシュリッヒカイト」“Zwischenmenschlichkeit”という言葉で人間を考えている。すなわち、共同体としての時代や社会と、そのなかに生きている個人との間には、実は切り離すことができない根底的な紐(ちゅう)帯(たい)があるということである。化学工業が生み出す自然汚染や、エネルギー多消費による地球温暖化、文明生活が吐き出すゴミ問題など、こういった問題は、単に個人の責任として問うべき事柄というよりは、政治・経済などを営む共同体としての責任というべき課題であろう。
  しかし、さしあたって今は、強く個人に帰属する主体的な宗教的自覚の面を考察したいので、こういう共業に帰せられる課題は、いったん考慮からはずして考えてみたいと思う。これは、近代に入って自我が強く意識され、個人の権利や自由などが主張されることで、個体の側をことさら問題にしたいということではない。人間はもちろん共同体とともに生きるには違いないが、やはり自分一人が自分の病気や死を苦しむことが根本に存在するということである。つまり、共同体や社会的な課題とは異質の、自分個人が生命として存在するところに起因する苦悩とそれからの脱出が、仏道の求道の中心的問題だからである。
  その個人としての生命体が、実は長い過去世の時間において自己の意識できる深さを超えて、「永劫」と言われる時間の営みを続けてきたとされている。カルパ(劫)と言われる時間が、現在の背景に乗っているというのが、インド以来の仏教の生命観である。その背景は、この地球上に生命が誕生して以来の、深く長い生命活動の記憶が、私たちの意識をはるかに超えて、この私の生命にまで成ってきたのだ、ということなのである。(2016年8月)

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