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濁浪清風
宿業を大地として(6)

  迷妄なる自己自身の成り立ちを、深層意識に阿頼耶(あらや)識を見いだすことを手がかりに、存在論的に解明してきたのが大乗仏道における唯識思想であった。その名の「アーラヤ」とは、一切経験の蔵という意味であり、「蔵」には能蔵・所蔵・執蔵の三義があるとされる。
  その能蔵とは、一切の行為経験を生み出す可能性を蔵していることだと述べた。そこから起こったあらゆる行為(現行)は、行為としては終わるが、その行為がそれをなした人間に経験として何かの結果を残す。その残すはたらきを「熏習(くんじゅう)」と言い、残された結果を「習気(じっけ)」と言う。熏習や習気がどこに起こり、どこに蓄積されるか、という問題に答えるものが「蔵識」である。熏習される場所が阿頼耶識であり、その結果たる習気がそのまま「種子(しゅうじ)」として蓄積されて、次の行為経験の可能性となる。熏習することを能熏と言い、熏習されることを所熏という。能熏・所發鮴り立たせる場所が、阿頼耶識なのである。
  この能所の蔵としての意味は、生命存在の持続を成立させる原理だ、ということであろう。この蔵から一切の行為経験が生まれ(能熏)、その結果の名残が習気としてその蔵に蓄えられる(所熏)。その現行(げんぎょう)としての蔵の作用を「阿頼耶識」と呼ぶ。その場所が持続するので、それを「自我」ととらえてしまう作用が付いてくる。その意識を『三十頌』の唯識論では「末那(まな)識」と名づけている。末那識が阿頼耶識を自我ととらえるので、「蔵」には主体を自我として執着するという妄念が付帯する。それで阿頼耶識に「執蔵」という意味を加えるのである。そこから、一切のこの世での行為経験には、必然的に迷妄性が付着するということが起こるとされるのである。これによって、「無始よりこのかた、今日今時に至るまで穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし」という流転の歴史が持続すると言うのである。
  仏道にとっての問題は、この一切の迷妄経験を持続する主体に、いかにして仏道の経験が起こりうるか、ということである。一切の経験の根拠たる阿頼耶識に、純粋清浄の行為が起こるはずはないから、仏道の種子が熏習されるはずもない。それにもかかわらず、人間に仏道の事実が伝承することは、どうして可能となるのか。ここに、『摂大乗論釈』では、仏陀の言葉が「浄法界等流(とうる)」の教法だから、それを聞法する経験は、まったく新しい経験(新熏)として、清浄の種子が習気となりうるのだ、と言う。それにしても、清浄の言葉を経験することは、やはり本来の可能性にそういう力が具(そな)わっていたからではないか。(続く)(2016年11月)

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