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濁浪清風
宿業を大地として(20)

  阿頼耶(あらや)識は、自己の一切の経験・行為を引き受けて、黙って新しい自己を生きていく。そこには、自己に与えられる因縁の善し悪しを選ぶことはない。運命的に襲ってくるような悪縁であろうと、自己の生命を危機に陥れるような事態であろうと、そこを生き抜くほかには自己自身があり得ない場合は、そのまま引き受けて生きていこうとする。その主体的存在を、好きだとか嫌いだとか、安全だとか危険だとか、善いとか悪いとかと分別するのは、末那(まな)識がからんだ第六意識の作用なのである。

  そもそも、この末那識という意識作用を名づけて阿頼耶識から独立させ、意識の構造を解明したのは、『三十頌(じゅ)唯識論』の作者世親菩薩であった。世親が学んだ無著菩薩の『摂大乗論』では、主体たる阿頼耶識を中心に、人間存在の意識的構造を解明し、迷妄の意識を転換して菩提を得るなら、生死の苦悩が転じて大涅槃となり、そのはたらきが浄土(十八円成)ともなるのだと語っている。

  そして、なぜ有漏(うろ)の主体が無漏(むろ)の自己に転換しうるのかという、「転識(てんじき)得智」の成立に関しては、その根拠は教えに依るとしていた。教えの言葉は、純粋無漏の法性(ほっしょう)から慈悲によって生み出されるのだから、「浄法界等流(じょうほっかいとうる)」(清浄なる法界から質を変えずに流れ出る)の教法だから、その聞法経験に依るのだというわけである。法界等流の清浄なる教言の体験が阿頼耶識に熏習(くんじゅう)するのだから、聞熏習の蓄積が雑染(ぞうぜん)なる主体そのものを転ずるまで修習するなら、転識得智が成り立つのだとするのである。

  しかし、世親は論理的にも経験的にも、それは成り立ちえないと考えた。もし雑染の質をもつ作用が阿頼耶それ自身であるなら、いかに清浄なる法界からの言葉であろうとも、それを雑染にしてしか熏習しないのではないか。例えば、どれほど親身な心から出た言葉でも、疑いでしか受け止めない人間にとっては、悪意の表れとされてしまう。純粋無漏の言葉といっても、不浄なる生活空間に入れば、不浄の言葉としてしか通用しないであろう。その不浄なる解釈で熏習することからは、決して雑染の質を転ずるような事件が起こるはずはない。

   世親は、おそらくそういう論理をくつがえすために、経験を熏習する主体それ自身は、煩悩に雑染された現行(げんぎょう)でなく、「依他起(えたき)」の作用の根拠として、有漏とも無漏ともなり得るような現行の構造を、阿頼耶識の現行・熏習とすべきだと考察したに相違ない。意識の深層に有漏雑染が現行しているからには、そのはたらきに「末那識」と名づけるべき独自性があり、その末那識の現行と熏習のなかで経験される一切が、限りない妄念流転の生活となるのだ。しかしその主体に、浄法界等流の教えが聞こえるとき、阿頼耶自身は黙ってその清浄性を熏習していくことができるのだ、と考察したのであると思う。(続く)(2018年1月)

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