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濁浪清風
宿業を大地として(20)

  阿頼耶(あらや)識は、一切の経験を蓄積して、しかもその現行(げんぎょう)は「無覆無記(むふくむき)」であるとされている。対する末那(まな)識は「有覆(うふく)無記」とされる。阿頼耶識が無覆であるとは、無漏(むろ)ではないが、覆蔽(ふへい)された(煩悩に雑染〈ぞうぜん〉された)在り方ではないということである。末那識の有覆とは、末那識が現行するときには、我痴・我見・我慢・我愛の四煩悩と常に相応するから、無記ではあってもいささか煩悩の気分があるというのである。しかし無記であるのは、前六識の現行とは異なって、判然と表面の意識上に煩悩の濁りが出るわけではなく、深層に静かに、寝ても覚めても、自我意識の根が息づいていることを表そうとしているからなのである。

  それに対して、阿頼耶識が無覆無記であるとは、主体自身の現行は、煩悩が起ころうとも善の心所(しんじょ)が起ころうとも、その作用を黙って蓄積熏習(くんじゅう)するのであって、それ自身に善し悪しの分別や選びをしないということなのである。だからこそ、浄法界(ほっかい)から等流(とうる)する教言の聞熏習も可能となるというわけである。

  聞熏習とは、第六意識の分別(いわゆる理性による了解)が繰り返されることによって、教法の理解が深まることである。それにしても、三界(さんがい)を超えた浄法界からくる意味を、三界に通用している言語空間に説き出されたことを、三界を生きている衆生が如実に了解することの困難性がある。それは、特に欲界にのみ執着する凡夫を導いて、その関心から脱出させるのが大変困難だということである。

  第八識が阿頼耶なる名を消すことができるのは、末那識が深層の自我意識を消されるときだという。聞法して理性が存在の空無を理解したとしても、それが一向に自我心を破る覚(さと)りの経験にまで至らない。いかに聞法修養を重ねようとも、真実の転識得智(てんじきとくち)の体験には到達できない。唯識観の修道の完成には、三大阿僧祇劫(あそうぎこう)を経る必要があると言われる所以であろう。自力の努力には長い時間が必要不可欠なのである。しかもそれは、この世の時間では間に合わないのである。つまり、凡夫にはまったく取り付く島さえないのである。

   天親菩薩(世親菩薩)が『浄土論』で「速得成就」と言われるのは、『十住毘婆沙論』の龍樹が「この身において」と言われることと重なっている。求道心の深い要求とは、今このときにおいて、三界を突破する核心が欲しいということである。この「速」に応ずる道は、自力の延長上にはない。その見極めが、本願力との値遇(ちぐう)となっているのである。このことに曇鸞が深くうなずかされたのであろう。(続く)(2018年2月)

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