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濁浪清風
横超の大誓願(15)

  「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(聖典、503頁)という和讃は、如来の大悲はすでに成就しているということを語っている。その回向成就とは、一切の衆生を摂取せずには自己自身を成就できないという誓いを、浄土という場所を建立してそこに平等に一切の衆生を往生せしめ(往相回向)、同時にその場所の力で浄土に生まれた衆生には必ず利他のはたらきを具足させよう(還相回向)という内容なのである。このことは、本願自身はすでに衆生救済の方法とその成就の形式を見出したということであって、それに帰入するかしないかは、衆生の決断に任されている。そのことと、如来の二種回向に値遇するかどうかということが、深く関係しているのである。

  我ら煩悩具足の衆生は、現実の苦悩と不安に縛りつけられている。無限なる大悲を誓う如来とは、単なる人間の虚像に過ぎないのであろうか。しかしそれならば、人間の歩みが真実の明るみを求め続けて来たことは、一体何であったというのか。求道の歴史が呼びかける真実は、決して単なる虚偽や詐諂(さてん)ではあるまい。世間に言うところのいわゆる効き目がある神々は、人間の悲痛なる願望に応じた虚像であるのかもしれない。しかし、仏道が伝えようとする人間の暗闇からの開放とは、苦悩の衆生の迷妄の意識に取りついている病理ともいえる我執からの脱却ではなかったか。自我の執心こそが、一切の人類の迷妄の根源の病であることを、人間として初めて発見しそれからの脱却に成功したのが釈迦牟尼如来であった。

  この人間の根源の病を「無明」と名づけて、真実の明るみを明示したことから、教言が立ち上がったのである。ところが、いかに「頭燃(ずねん)をはらうがごとく」に努力しても、この境位に到達できないという嘆きに対応して、本願の仏法が聞き当てられてきたのである。大悲の作願が、横超といわれる所以は、人間の迷妄の発想には徹底的に不可解なことを呼びかけているところにある。したがって、ここに教えられる「二種回向」とは、大悲の側から用意されている誓願の作用なのである。これは親鸞が苦心して語り明かそうとする本願力の内実なのである。

  この願力の前に、我ら凡夫は虚心に低頭して帰入することが、求められているのである。それを、回向との値遇と表現するのであろう。我らには出会うべき必然性があるとは思えない、にもかかわらず大悲は待ち続けていてくださったと、気づくほかないのである。大悲に帰して全面的に信順するのだが、有限なる凡夫にはその上で、さまざまの状況的な不条理が襲ってくる。ここに、有限の努力がかかるのだが、この問題はテーマを改めて考えてみたい。 (2019年8月)

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