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濁浪清風
意欲の異質性を自覚せよ、と。――有為の善悪と無為の涅槃(2)

  仏陀としての釈迦を、如来(タターガタ)として仰ぐようになるのは、釈迦の覚りの体験の本質を、「タター」(…のごとし、如)であると表現されていることから、釈迦の存在を「如」から来たもの、すなわち覚った真理の中に止まるのでなく、苦悩の娑婆に衆生を教化するために現れてくださった存在(応化身)であると見たからである。

  先に涅槃は無為法(むいほう)であると述べたが、「如」も変わることのない無為法である。親鸞が、「証巻」において、涅槃の同義語として真如・一如・法性などと並記しているとおりである。仰ぐべき釈尊の本質が、有為法(ういほう)としての身体や表現された言語にあるのでなく、無為法に由来することを表そうとしているのである。依りどころとして仰ぐべきは、表面に現象として現れている人でもなく、その人が覚りの内実を語ろうとした言語表現の表相にあるわけでもなく、「法」(ダルマ)に依れと述べていることが、弟子達にとってはなかなか領解しにくかったのではないか。弟子達は迷いの意識の中から、如来たる仏陀の言葉を手がかりに如来に近づこうとする。しかし覚りから出る言葉は、迷いとは異質の内実を言い当てようとするものである。迷いの側から言葉で把握されるものは、どうしても有為法の限界を超え出ることはないのである。「法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし」(聖典357頁)との教言は、かくして厳しい弟子への叱咤の言葉となったのである。

  無為法を追求する仏弟子達の営々たる努力は、僧伽の編集による経典の内容として積み上げられ、跡を辿ろうとする者に、どこを辿れば頂上にたどり着けるのかを踏み迷わせることにもなった。仏陀の教えは、迷って来た自己の苦悩を因として、そこから脱出する形で教言が語り出されている。世の中の一般的な宗教の教言は、絶対的な無限者からの命法が根拠となるから、それはいわば果から因へのはたらきかけの言葉なのである。仏教の経典がなぜこれほどに多量になるのかという疑問が出されることがあるのだが、それは因から果へと衆生を導こうとしたのが、その原因であるということができる。

  しかし再考するに、如来が如から来生したという説明には、大きな矛盾があるのではないか。つまり、有為法と無為法との領域は、ある意味で絶対に超え出ることがないはずである。そこを仏陀が乗り越えて来たという表現のもつ問題である。このことには、釈尊の入滅の後も仰ぐべき如来が現に臨在するという、仏弟子達の信念を支える想念が存在しながら、その教えに随順しようとすると領解不能になるという弟子の側の問題があったのではないか。(続) (2019年10月)

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