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濁浪清風
「願に生きる」ということ(5)
   「本願を信受する」という信念には、宗教的事実のもつ深い意味がある。それは仏教の自覚において「死して生きる」と表現され得るような、根本的な意識の変革とでも言うべき、人生態度の転換が起こることを意味している。そのことが、本願他力のはたらきを信ずることによって成り立つことを、親鸞は徹底して明確にしようとされたのである。

  その場合、「願に生きる」とは、いかなる意味を表示しようとしているのであろうか。そもそも、宗教的信念を獲得しようとするとき、苦悩の衆生にとっては、その信念を獲得できれば人生の苦悩が消え去る、というような安易さへの要求が起こりがちである。そのために、生命の有る限り消えることのない煩悩をもちながら、「浄土の生を得る」ことなど絶対にあり得ない、という言説が横行することになる。それに対して、「信に死す」というのは、宗教的信念が苦悩の終点であるという誤解を払拭して、真実の生命(煩悩を妨げとせず、苦悩をも乗り越えていく方向)に立ち上がることを表現しようとするのである。

  ここから親鸞が明らかにしようとする「信の一念」には、「前念命終 後念即生」と表現される意味を見いだすことができるということなのである。ここに言う「前・後」は一念の二義であって、決して二念に分かれることを言わんとするものではない。信心に三心が言われても、しかも三心は即ち一心であると示されるように、信の一念に「前念・後念」の二義を開いて、宗教的信念のもつ実存的意味を示そうとするのである。「死す」という意味と、「生きる」という意味が、一念同時に成り立つことが、本願による衆生救済の事実であり、それが真の宗教的救済だということなのである。

   さらに言葉を重ねて表現するなら、周知のように他力の信心には、「二種の深信」と言われる意味がある。「機の深信」・「法の深信」と言われていることがらである。善導が言わんとする二種の深信とは、信心の二義である。決して一方の条件で他方が成り立つという交換条件的関係を表すものではないし、一方が成り立つとき他方は不要になるのでもない。他力至極の金剛信に必然的に内具する二義なのである。宗教的自覚とは、自己の有限なることの事実の信知と、それを護持してやまない無限なる大悲心への信順をもって、この矛盾多き生存を生きる智恵なのである。

   しかしここに「前後」という言葉があることは、信念に次第があるということでもある。無明の闇を破ってこそ、光明の広海に出る喜びがあるということである。(続く) (2020年11月)

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