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濁浪清風
「願に生きる」ということ(8)
   一念の信心による超越とは、本願力によって念仏の行者に「生死即涅槃」にかなうような内実が確信されることである。具縛の凡愚の信念にそのような内実が、いかなる意味で現実に成就すると言うのであろうか。このことに合点がいかない弟子たちが、様々に言葉を作り、確信のもてない自己を弁明しようとしたらしい。「即」にも「同時即」のみでなく「異時即」があるとか、今現在のことでなく、いずれ浄土に往生した上での彼土の利益である、とかである。

  今筆者は、親鸞が表現しようと試みた「他力の救済」の積極的意味を、少しく丁寧に訪ねて跡づけて見たい。まず先回の最後に挙げた信心発起にからむ問題(共発と能発)のうち、善導の「共発」につきその可能性を考察してみよう。

  この語と同じことが、「十四行偈」(善導『観無量寿経疏』)の結びの回向文にも「同発菩提心 往生安楽国」と表現されている。「共発」の「共」とは、「同」と同じく一切衆生への平等の慈悲を表現しようとしていることが想定できる。したがって、この願言において語りかけようとする共通の内容は、平等の大道である「大悲心」から流れ出るものであることは、つとに曇鸞が性功徳釈で明示していることである。しかし、この願を凡夫の位から、果たして真実の誠意をもって発起できるのであろうか。

   濁世の有情の現実は、有限なる凡夫の生存競争の現場であり、その生命の誕生には時代や民族、その家庭環境や生活状態など、種々様々な差異が乗っているのである。そこに起こる幸せへの願望は、決して平等無差別の質などではありえない。「衆生」の異訳に「異生」という語が当てられる場合もあるように、生存の事実には、必ずその事実を生きている「身体」があり、それは他には代替できないそれぞれの固有性をもつものであるから。

   では、いかなることを「共発」として願ずるのか。その内容は「大菩提」、すなわち大乗仏教の究極の「覚り」であるとされる。現実の差異を突破して、平等でありたいという願望に応えようとするものである。その平等の可能性は、精神的な固執を破って、無碍の心に立つしかなかろう。それは現実を忘れることではないのか。現実の差異や生存の困窮を超越して、平等の存在を構築することは、いかにして可能なのであろうか。

   ここにどうしても、仏道が呼びかける究極の平等の相とは、いかなる事態であるかが問われることになるであろう。差異や不条理を少しずつでも減少させて、究極的に平等を成就しようとするのか。それとも、それをそのままにして、その現実の受け止め方を超越すべきであるとするのか。(続く) (2021年2月)

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