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濁浪清風
悲しみを秘めた讃嘆(1)
   仏法に遇うことによってわれらが獲得する「歓喜」には、他の喜びとどのような違いがあるのか。親鸞の語りかける信心の内面には、容易にはたどり着くのが困難なことを感じるのはどうしてであろうか。そして、親鸞が仏道を歩むことにおいて、「他力」に出遇い、そこにおいて仏道を成就し得るとするには、いかなる思索の過程があったのか。このような疑念を少しずつ解きほぐしながら考察してみたい。

  まず、普通の生活における「喜び」に対して、宗教的な生活に与えられる「喜び」とはどういうことかを考えてみよう。この問いに先だって、そもそも宗教的な要求とは、いかなることなのかを押さえておきたい。一般論ではなく、親鸞の語ろうとする教えに沿うなら、仏教徒としての根源的な要求とは、菩提心であるということになろう。菩提を深く要求して止まない精神ということである。その「菩提」とは、bodhi、すなわち無我の智慧のことである。そうであるなら、無我の覚りを得ることが、人生にとって無上の喜びであるということになろう。たしかに、仏教の開祖とされる釈迦牟尼仏においては、そのように苦悩からの根本的解決を求めて難行苦行の六年間の時を費やした後、いかにしても人生に付帯する苦悩を超え出ることなどできないとあきらめたとされている。そして、大樹の根本に端座して、数週間、そのまま静かに死に向かって黙想したのだが、突如、精神に寂光がさしてきて、無我の覚りが開けたのだと伝えられる。

  その喜びを個人のものとせずに、人々に開示せよとの梵天の勧請をうけて、転法輪が開始されたとも伝えられている。この釈迦の説話からするなら、先にも述べたように、無我の覚りがもたらす喜びこそが、この世での無上の喜びであるということになる。ところが、この無我の体験を求めるという要求が、どれだけ人々を引きつけたとしても、それを完全に満たすことは,その後の求道者たちにとっては容易ではなかった。無我のままに如来として生きるということには、不可能と言わざるを得ない大問題があるからである。

   そもそも生命がこの世にあるということには、個体としての限界がある。すなわち、身体が限定され、生きる空間や時間も限定される。われらが生きてあることとは、さまざまな限定のもとに成り立っているということである。なかでも、人間が生きるということは、時代や社会などの特定空間に生存するということである。

   そういう諸限定にある存在が、「無我」になるとはどういうことであろうか。(続) (2021年7月)

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