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濁浪清風
場について(2)
 私たちは、この世に生きるについて、必ず身体を与えられている。身体はその生命作用を持続する「場」をもっている。いわゆる「環境」である。この身体と環境との関わりを総合している機能がある。それを、普通は「自我(じが)」であると考えるのだが、仏教はこれを「我」ではないとする。しかし、我に似て現象している事実はある。だから、唯識(ゆいしき)ではそれを「阿頼耶識(あらやしき)」と名づけている。そして、阿頼耶識は「身体と環境と、それをいのちとして相続する力」(有根身〈うこんじん〉・処〈しょ〉・種子〈しゅうじ〉)を内容としていると定義しているのである。このことからするなら、真の主体とされるべきものは、身という限定とそれが感じている環境を、自己の内容としているということである。
 この「環境」には、自然環境のみではなく、人間環境が大きく作用してきている。人間環境というのは、言うまでもなく社会的な条件や歴史的な影響、家庭環境、教育環境、経済的状況など、人間としての生活のほとんどすべての要素を包摂(ほうせつ)している。だから、主体の基底には、必然的に環境の条件が付帯していると言うべきである。一般には「主体と環境」として、二分してものを考えるのであるが、唯識からするなら、身体に感じられる環境は、身体の感覚作用と切り離すことはできない。どういう環境を感ずるかは、身体の能力やその歴史と深く関連し合っているからである。その密接な関連を一旦切って、外なる環境と内なる主体という構図が、近代的な人間理解となり、本来、分かちがたい関連にあることの間に境界線を引いたのであるが、その結果、近現代の人間の自覚から「場」のもつ大切なはたらきを削(そ)ぎ落としてきた面があったのではないか。
 この「場」に、時間的な背景をも加えて考察してみると、自己には生命の無限大の連鎖が過去にあり、その時間の蓄積に秘められた生きる知恵と力が、「環境」を感受する能力になってもいるのである。つまり、生き物の感ずる環境は、その種によって異なるであろうし、同じ人間であっても、厳密に言うなら個体によって少しずつ異なっているに相違ない。してみると、身体が異なるのみではなく、環境もその身ごとに異なって感受されていると言うべきなのである(2006年1月)。
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