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濁浪清風
「宿業」について(4)
 「宿業本能(しゅくごうほんのう)」という曽我量深(1875〜1971)の言葉を、先回ご紹介した。このことをもう少し考えてみたい。
 「宿業」こそが宗教的な要求の根本の原因であると感ずるところに、この言葉の力がある。そして、このゆえにどのような状況を与えられた人間であっても、本能的な深層の要求として求道心が与えられているのだという人間存在への信頼が、仏陀の大悲の眼だということであろう。だから、「われらが如来に気づくよりも前に、如来がわれらのことを気遣(きづか)っていてくださる、われらが如来を信ずる前に、如来がわれらを信じていてくださる、われらが如来を愛する前に、如来がわれらを愛していてくださる」と曽我量深は語るのである。
 いわゆる「本能」とは、生命のいとなみの歴史によって蓄積された不思議な能力である。生きているということは、単なる物質の変化ではない。一つの個体を持続するべく、それぞれの個体は独自の生命現象を営んでいるのである。だから、生きていることそれ自身も、いわば生きようとする本能によって成り立っているとも言える。この能力は、生命のどこに蓄積されるのであろうか。部分と全体とが交互に作用し合いつつ、生命現象を持続するいのちのどこに、この本能が蓄積されるのか。この問いに対して、物質的な部分や場所ではなく、本能を蓄積するような作用のありかを、深層意識にあるのだと仮定するものが、唯識(ゆいしき)思想の「阿頼耶識(あらやしき)」なのではなかろうか。阿頼耶識は「異熟識(いじゅくしき)」とも言われる。これは、業報(ごうほう)の果が熟成されて、可能性となって蓄積されるように作用しているはたらきだ、ということである。行為の結果が、その痕跡を個体の中に蓄積して、念々に変化しつつ持続するのである。
 ある事実に言葉が当てられると、どうしてもそれに相当する実体があるように考えてしまうのが人間の癖である。阿頼耶識も、あらゆる意識や行為経験の一切を蓄積して、新しい意識作用を呼び起こしてくる作用があるから、その作用に名を付けたのであって、実体を言うものではない。よく誤解して、これを「霊魂のようなもの」と解釈する学者がいるが、これは名の意味と実体とを混乱しているのである。阿頼耶識という名前は、生命作用や意識作用を成り立たせている「本能」的な作用のことなのであると思う。
 この本能的な作用に、深く宗教的な要求が根ざしているという見方から、「法蔵菩薩は阿頼耶識である」という、曽我量深の独特の発言が出てくるのである。宿業を担(にな)うはたらきには、良いも悪いも選ぶことなく、起こった事実の痕跡を引き受けるところがある。それは、善悪を問わず一切の衆生を担おうという「法蔵精神」と同質だというのではなかろうか。(2008年1月1日)
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