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濁浪清風
親鸞一人(3)
 われわれ人間が、「我」があると感じるのは、自己を成り立たせている身体に生命力があり、生命の持続をするための環境が与えられていて、一個の生命体が生まれて死ぬまでの営みを継続している事実があるからである。この生命現象の事実を成り立たせている個体の実存は、寝ても覚めても変わらない一個の生命体である。これに、唯識(ゆいしき)思想は「阿頼耶識(あらやしき)」という名前を与えた。この阿頼耶識と名づけられる作用、個体の生命を支えている作用を、人間は何時の頃からか、自我だと考えるようになってきた。この自我と考える作用を、われわれは主体の意識の内部に抱えているように感ずるのであるが、それは阿頼耶識それ自体ではなく、恒(つね)に自己自身に一体のごとくに張り付いている自我意識だと見て、それに「末那識(まなしき)」という名をあたえてきたのが、三十頌(さんじゅうじゅ)唯識論である。
 この差違を自己自身と自我意識というように、分けて考えてみたい。つまり、自己を自我だと恒に思い続けているのが、われら妄念の衆生の自己認識なのである、と。その自己を自我だと考える立場を批判して、自己自身に返(かえ)れというのが、仏教の方向なのである。我(が)は無いといっても、自己が無いというのではないのである。このことを論理的に解明しようとして、主語的論理が「自我」から発想するのに対して、「自己」を表現するということには、述語面からの論理とでもいうものが有ると、西田幾多郎は言いたかったのではないか。
 日本語の表現に、状況の了解が前提されていて、場の雰囲気を共通に理解したえうで、言葉が出されてくるという特質があるといわれる。この場から出てくる表現の基底に、仏教思想からの影響があるのではないか、と井出祥子教授(社会言語学者、東北大学客員教授)が指摘しておられた。このことと、自己と自我の差違を自覚することによる言語表現のあり方に、何らかの関連があるのではなかろうか。(2008年10月1日)
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