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濁浪清風
親鸞一人(4)
 阿頼耶識(あらやしき)の相分(阿頼耶識自身の意識の内容となるもの)は、「不可知の執受(しゅうじゅ)と処」であるとされる。不可知の執受とは「有根身(うこんじん)」(身体)と「種子(しゅうじ)」(可能性)である。身体に生命の持続への能力(種子)が付与されて、「場」(処)を感じながら生きていること、それを阿頼耶識というのである。身体的な限定を受けて生命は存続するのであり、その身体には永い生命の歴史を経てきた経験の結果が蓄えられていて、その身体に与えられてくる環境に、適応したり、反応したりして生きていくのである。
 そういう生命である自己自身は、歴史的背景として無数の生命の生まれては死んでいった経験を蓄積しているのみでなく、生まれてきて生きている他の阿頼耶識を「処」の中に感ずる。つまり、人間は人間の中に生活を与えられるのである。  「慢」の煩悩は、比較の心理であるとされているが、この比較する心理とは、他の衆生と自己とを比較する心理を根底にもつ。これを「我慢」という。末那識(まなしき)相応の四煩悩(我痴、我見、我慢、我愛)のひとつである。これには、「我痴」が前提にあって、「自己」の実相を知らないから、意識が起こるときには、他の阿頼耶識が気にかかるということなのかもしれない。
 自我の意識が起こるところには、常に他人との間で自己が比較されて意識されるので、さまざまな煩悩がそのうえに奮起(ふんき)することになってくるのである。この煩悩の心理が起こることが、自己自身のありかたをありのままに自覚することを、ますます邪魔してくるのである。末那識の作用に付帯する「自我」がらみの煩悩を払拭(ふっしょく)しうるなら、ようやくに「自己」自身が解放されると教えられるのも、こういう根底的な問題があるからのことなのであろう。
 こういう課題を、個人意識の反省や努力、意識の沈静化による寂滅(じゃくめつ)の方向などに求めても、人間存在としての根本的な解決にはならないということが、仏教における求道の根本問題として掲げられてきた。それを大乗仏教では「自利利他」という言葉で押さえてくるのである。自己の根本的な解放と同時に、人類的な解放がそこに同時的になされなければならない、ということ。これが尽未来際(じんみらいさい)をかけてでも果たされなければならないという、如来の願心の内容となるのである。(2008年11月1日)
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