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濁浪清風
親鸞一人(5)
 天親(てんじん)菩薩は『浄土論』において、「自利」なくして「利他」はないし、また「利他」なくして「自利」はない、自利の成就と利他の成就が同時であり交互的である、と押さえている。そして、その利他を「一切の苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願(さがん)すらく、回向(えこう)を首(しゅ)として、大悲心を成就する」のだという。この言葉に本願の大悲心が集約していると、親鸞は感得したのではないか。「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末〈しょうぞうまつ〉和讃』)と讃歌される所以である。利他の回向には、菩薩因位の自利の功徳すべてを収(おさ)めて、苦悩の衆生に振り向けようとする用(はたら)きが具せられているのだ、と。
 この自利利他の成就ということが、人間存在の根底に深く願われていると、仏道の眼は見抜いてきた。それを物語的に表現するから、法藏菩薩が「一切衆生を救わないなら自分は仏にならない」と誓うのであろう。悲願が誓願といわれるのも、宜(むべ)なるかなである。
 しかし、愚かなわれら凡夫はその根源の願いが見えずに、表層を動く自我の意識に迷わされ、「三界(さんがい)」を流転してしまうのである。この表層の迷妄の覆(おお)いを「覆蔽(ふくい)」という。これも煩悩の異名である。煩悩によって正しく存在を了解する眼を覆蔽されているのだというのである。
 存在の本来のあり方を、仏教では清浄なる法界(ほっかい)という。このあり方を一如とか法性(ほっしょう)とか、さらには涅槃(ねはん)とか寂静(じゃくじょう)とかともいうのだ、と押さえるのが親鸞の定義である。存在の本来性ともいうべき大涅槃とは、それに帰すれば存在本来の用きが顕(あら)わにいきいきと用き出すのである。静かなる本来性がじっと待っているのは、迷妄の覆蔽を破って正しく存在を認知する存在の誕生までであろう。時来たれば、本来の大用(だいゆう)が、本願の用きとなって、衆生に用き出るのだ、それを回向というのである。
 愚鈍の衆生であろうとも、存在の本来が用き出てくる大悲の回向に値遇(ちぐう)するなら、そのおおいなるはたらきに随順して、大悲の願心のはたらきを感受する存在とされる。そこには、罪障の凡愚(ぼんぐ)たる「一人(いちにん)」が、かたじけなくも大悲をこの世で証明する場所となるのである。かけがえのない「金剛心の行人(ぎょうにん)」とほめられる身に転じられるのである。(2008年12月1日)
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