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濁浪清風
親鸞一人(7)
 「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)」のご苦労は、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためであるということの裏側に、自利利他の課題が潜(ひそ)んでいるのではないか、ということを考えている。自分の自由意思の達成のためには、他の領域を乗っ取ったり、他に実る果実を奪い取ったりするという、自我中心の「一人」ではなく、如来の大悲に照らされた愚かで罪深い「一人」だからなのである。平等に「一人」の尊さを付与されるような自覚は、他をも如来が照らしているということを知っているに違いない。
 これは自我中心の存在構造を真に変革しうるような「眼」への気づきが、我らに要求されているということなのではなかろうか。このことを一切衆生に気づかせるために自己の内にもよおす「利他」の要求を徹底することを、「大悲」のこころは自己の課題とする。その時に、阿頼耶(あらや)の相分(そうぶん)たる「処」の問題であるものを、一切衆生の身体を包み支える場所の質を転換するという形で、大悲を透徹しようとするのが、法蔵願心の浄土教の意図なのではなかろうか。
 曇鸞(どんらん)はそのことを、浄土の荘厳の意味として「畢竟成仏(ひっきょうじょうぶつ)の道路、無上の方便」と言う。我らの意識が自我の迷妄で環境を捉えることとして、阿頼耶の相分たる「処」は種子(しゅうじ)を保持する。その場合の処は、凡夫の住処たる穢土の暴風駛雨(ぼうふうしう)の場所である。それは凡夫の意識が自我でしか場所を感じないからである。しかし、その自我の意識を破る大悲の如来の光明海に転じ入れられるなら、その場所は、「至徳の風」が吹き渡る静かな海となるというのである。悲願が我らの意識にはたらいて、我らの意識を転じて「破闇満願」の事実を我らにもたらすとき、「処」は願心荘厳の意味をもってくるということなのではないか。
 無上の方便となった場所は、限りなく穢土を願心のはたらきへと催促するであろう。そのとき穢土は、光明寿命の誓願の果報たる真実報土の意味を具現する場ともなり、至心発願(ししんほつがん)・至心回向の願心がはたらく方便化土の意味に堕することにもなるのではなかろうか。(2009年2月1日)
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