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濁浪清風
生きている「場」の展開(6)
 「信の一念」ということは、念仏を行ずる衆生の心に与えられる事柄である。この問題を親鸞が提起したのは、行者が念仏を行ずるということについて、どうしても自分たち衆生の状況についての差違を気にしたり、比較対照して上下差別を付けたりしてしまうからであった。吉水の法然門下には、学問の宗を異にしながらも、同じ念仏に帰して同門の徒となっている人々がいた。だから、行は同じだが、それを修している心は、当然異なっていると感じられていたのであろう。ということは、自力の修行や学問に心を残しながら、念仏を行じているということである。「同一念仏」といいながら、こころはひとつでない、ということの問題が、「一念義」「多念義」とか「有念」「無念」という理解の分かれにもなってきていたのである。
 「こころはひとつにあらねども 雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)これにたり」と和讃に詠(うた)われているが、人間の努力の形ではいかに似たように見えていても、本当にひとつには成り得ないのである。そういう諸種の雑心が混ざっている求道心で、法然上人のご信心と同一の救いを得られるのか、もし得られるなら、どのようにして獲得できるのか。どういう根拠によって自己のこころが、師法然と同じだと言いうるのか。この問いは、親鸞にとっては法然門下への入門の時点で、きっと厳しく自己に問われていたのではなかったかと思う。その根拠を「弥陀の本願に依る」のだ、と確信したのが、「雑行を棄てて、本願に帰す」という表現に込められている意味なのではないか、と思う。
 だから、源空上人法然の門下になったからには、上人の信心と入門したばかりの親鸞と、「信心においては同一」であるという確信を、本人としては得ていたのではなかろうか。しかし、それを師からも、また同門の先輩たちからも認めて貰うには、長い確認の時間が必要であった。その過程で提起された問答が「信心同一」の論争であったのではないか。そして、誰にあっても念仏にたまわるこころは平等であるという言明を上人から頂き、それを「本願成就の文」の「至心回向」の解明によって、「信の一念」の内容に確証していったのではなかったかと思うのである。(2009年11月1日)
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