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濁浪清風
生きている「場」の展開(9)
 生きている場ということで考えているのだが、それは人間の精神生活にとって、生きていることを支えている「場所」というものが、いかに大きなはたらきをしているか、ということの捉(とら)え直しの作業でもある。この場合の「場所」とは、いうまでもなく単なる空間的場所や環境的場所にとどまるのでなく、存在を支える作用の全体をも指し示し、さらには論理構造を支えるような次元の意味をも含んでいる。
 西田幾多郎に「場所的論理」という発想があるが、主語的論理に対して述語的論理というか、主語を包摂する存在全体としての述語面というか、そういうことをも包みつつ、人間精神の閉鎖性を本当に開放するための自覚契機として、「場所」を通して教えが立てられている浄土教の積極的な意味を掘り起こそうという試みでもある。
 主語がどうしても個我的な殻を破れないのに対し、場所は始めから自他を包んでいるところがある。清水博先生の提出しておられる「卵」のイメージでいえば、いくつかの割られた卵の集合で、黄身が主語的であるのに対し、白身は黄身を包みながら他との境が溶けて入り混じっている、いわば場所なのであるとされる。浄土のイメージもたとえ真実報土の往生人は、いかに「虚無(こむ)之身・無極(むごく)之体」であると言われていても、なにがしか誰それのはたらきと名付けられてしまう滓(かす)がイメージに残るのだが、場所としての報土には「無量光明土」としての全体性で一切を包摂するはたらきのみが感じられるところである。
 本願が場所を呼びかけ、呼びかけられる我ら凡愚が、「願生」の意欲に立ち上がるのは、「本願を信受するは、前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり」という個我の命終をくぐってであるとされる。曽我量深の「信に死し、願に生きよ」とは、「我信ず」というところに、「我執」に死んで、「本願の場」たる浄土に生命を頂くということだ、ということであろう。「即得往生」の「即」とは「不一不異」を現す大乗的論理の言語である。凡夫が煩悩を消し失わずして、浄土の光明の利益を得る。つまり、無明の黒闇を破して、光明の広海に浮かぶことを得るのである。場がこの時には、限界を持たない明るみであるから、無辺光であり、何ものにも妨げられないから、無碍光なのである。それを無量光明土というのである。
 こういう限界と妨げを突破する場所的はたらきを要求するとき、個我の閉鎖性も邪魔することがないし、現実の諸条件が行く手を拒むこともない。無限に大海原の航海がひろびろと渡っていけるというのである。(2010年2月1日)
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