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濁浪清風
「願に生きる」ことと「場所」の問題(11)
 親鸞にとっての師・源空は、「愚(ぐ)にかえる」ことにおいて「仏の本願に依」って往生することができると教えた。「愚かさの自覚」たる信念によって浄土往生を得るのだと。そして、師の教えにあっては、「三心(さんじん)」「四修(ししゅ)」を努力で勤めるのでなく、本願の信を得れば、それらは「おのずから具(そな)わる」のだと言う。それにもかかわらず経に「諸行」が勧められているのは、実はそれらを捨てさせるためだ、と言われる。このことは、一応はそういうものかとも思えるのだが、努力の集中のごとき精神態度が、ひとりでに成り立つとはどういうことなのか。それにつけても、『浄土論』の「五念門」のことはどう理解すべきなのか。
 「愚かさの自覚」ということなら、おそらく親鸞は師の前に深く納得したであろう。この師にして、生きてあることの「愚かさ」を深く悲しむのみならず、それだからこそ「順彼仏願」(彼<か>の仏願に順ずる)のゆえに、称名による往生を得られるのだと言われるのだから、それを心底から信じようと。これについては、親鸞は「雑行(ぞうぎょう)を捨てて本願に帰す」(『教行信証』「後序」)のだと決断しているのであった。しかし、それにもかかわらず自己の「愚かさ」の自覚には、どうしても「三心・四修」が具わって来ないという感覚を、おそらく困惑しつつ見つめ続けたのではないか。
 自力の努力意識を消して無心になっていくという方向には、その一時的体感はあったにしても、決定的で持続的な安心感は与えられない、ということが親鸞の求道(ぐどう)の帰結だったのではないか。だから、後に「一念・多念」の論争とか、「有念(うねん)・無念」の問題ということが収まらないことに対して、親鸞は懇切な仮名聖教(かなしょうぎょう)を書いていくのである。その論点の中心は「真実信心」を深く自覚するという方向にある。本願力が摂取不捨の誓いを呼びかけているのだから、我ら凡夫は大悲に信順するのみだということを繰り返し述べるのである。煩悩の身のままに、本願力を信じていこうと言われるのである。
 このことは、親鸞自身が「愚かさ」を自己に徹底するには、「本願を信ずる」こころの底に残留する自力のよどみを明白にする必要があった。「罪福信」といわれるような問題は、教えを素直に受けとめていると思っている自己の意識の底に、自我の思いの成就することに執着する自分がいる。自我の思いの成就のために本願力をも利用しようとするような「自力の執心(しゅうしん)」が動く。これを親鸞は、信心の内なる「疑惑の罪」として意識の明るみに持ち出そうとしたのである。(2011年4月)
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