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keyword:死はいつも自分の隣にある、悼む
Vol.102 友人の死に接して思うこと 大谷 一郎

 今年の8月2日に友人が自死した。小学校以来の付き合いで、最近は会う機会が増え、メールもやり取りしていた。しかし、彼の様子から自ら死んでしまうような気配はまったく感じられなかった。いや、もしかしたら彼はSOSを発信していたのかもしれない。しかし、私は気づかなかった。突然だった。私は中学校時代に彼にちょっとした借りがあり、これから少しずつ返していこうと思っていた矢先だった。今になって、彼の死を思いとどまらせるような何かができたかもしれないと考えること自体が傲慢(ごうまん)であることはわかっている。しかし自分の無力さに愕然(がくぜん)とした。悲しかった。
 「死はいつも自分のすぐ隣にある」ことは、誰にとっても同じであることを頭では十分承知しているつもりだった。しかし、彼の死を目の前にして私は動揺し、うろたえた。「死」が私自身の本当の問題になっていないことを彼は教えてくれた。
 清沢満之は結核という病に侵され、自らの死の現実に直面し、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有(へいゆう)するものなり」という言葉を残した。自らの死を徹底的に見つめ、凝視することによって初めて自分の人生の根底にある本当の問題に出会うことができる。「死」に照らされ、いかに生きるかという「生」の大問題がはっきりと見えてくる。この言葉はそういう意味をもつ。「生」の意味だけを追い求めがちな私たちにとって、この言葉の示唆するところは重い。死が自分の本当の問題になるとはそういうことだろう。
 彼の死を前にして、もう一つ考えさせられたことがある。それは「悼(いた)む」ということだ。
 「悼む」ということはどういうことだろうか。
天童荒太氏の小説『悼む人』には、ひたすらに死の現場で死者に思いをはせる「悼む人」が出てくる。「悼む人」は死者が誰に愛され、誰を愛し、どんなことで人に感謝されたかを可能な限り知ろうとし、そしてその思いを胸に悼む。それは死者に対し、その人の記憶をとおして可能な限り寄り添おうとする態度である。それは、死を穢(けが)れとして拒否し避けることを意味する「忌(い)む」ということの対極にある態度だと思う。
 「死はいつも自分のすぐ隣にある」。そのことから目を離すことなく、彼のことを心から悼みたいと思う。 合掌

大谷一郎(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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