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keyword:憂さ、やさしさ、絆
Vol.105 「やさしさ」について 山本伸裕
世間(よのなか)を 憂(う)しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば


 古く、『万葉集』に歌われたこの歌には、「やさし」という大和言葉の語源を見てとることができてなかなか興味深い。形容詞の「やさし」は、「痩(や)せ細る」を意味する動詞「やす」から派生した語と言われる。つまり、ある対象に対する自身の無力さや思いの届かなさが、身の痩せ細るような痛切な思いとして感受されることを言い表したのが、この語の語源であったと推測されるのである。
 現代ほど「やさしさ」という語があふれている時代はないのではないか。とりわけ、2011年3月にこの国を襲(おそ)った未曾有(みぞう)の災害は、「やさしさ」や「絆」、「助け合い」の意識を人々に強く再確認させる契機となった。だが、現在、多くの人が口にする「やさしさ」は、万葉の歌人が感じていた「やさしさ」と同じとものと言えるだろうか。「やさしさ」や「思いやり」が「絆」の創出に不可欠であることは言うまでもない。とはいえ、「やさしさ」という言葉が安易な意味で流通するとき、そこになにか、人間存在にとって本質的な大事なことが忘れ去られることになりはしないか。
 世の中を「憂し」と感じるとき、いったい人は何を見て、何に触れているのか。それは、絶対無限にして他なるものにほかならないであろう。その場合の憂さは、とりもなおさず、自身の無力さ、思いの届かなさを通じて感受される憂さであって、この感情は自分自身ではどうすることもできない。その意味で、この感情は自己が絶対的にして他なるものに支配されていることの動かぬ証拠に違いない。したがって、そこから逃れることは、鳥ではない、まして神仏でもない私には、到底できない。だから、憂さはどこまでも私につきまとい、憂き世はどこまでも憂き世なのである。
 だが、この事実は自己がただ単に闇の中にある存在であることを意味してはいない。そこにはもう一つ、否定し難い現実があるからである。それは、払い難き憂さを感じているこの私は、現にこの世界に生きて存在しているという現実である。このことは、まさに死を希求している人間にとってさえ否定することのできない事実である。だから、今、現にある私の生は、そうした憂さとともにあるものであって、言い換えれば、そのことを引き受けていくところにしか生はないということなのである。
 痩せ細る無力に身を焦(こ)がしつつ、それでも自分は生きている。だとすれば、この私はもはや私の力で、自力で生きている存在ではない。生かされて生きているに違いなく、そこにこそ存在の意味があるはずなのだ。
 このことは呪詛(じゅそ)なのか祝福なのか。――ともかくも、痩せ細る思いとともに、存在し生きることを許されているこの私は、世界から見放されてある存在では決してない。そう感じられたとき、痩せ細る思いの私は、はじめて「やさし」くなれる。そこでこの生を肯定し、自力を尽くして生きていくことができる。
万葉人が歌うやさしさは、そうした地平に生じ、そこにあらためて他者を思いやる真の倫理を可能にするものだったように、私には思われる。

山本伸裕(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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