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keyword:宗教、死
Vol.114 殉教ということ 花園一実

 星新一のショートショートに「殉教」という作品がある。そのあらすじは以下の通りだ。
 ある科学者が、死後の世界と交信できる装置を発明したというニュースが流れた。人々ははじめ「そんなことできるはずがない」と一笑に付し、誰も相手にしていなかった。しかし、亡くなった親類や縁者が、その装置を使ってこちらの世界に呼びかけ、実際に会話をしている様子が流されると、全国各地から膨大(ぼうだい)な数の人々が装置を求めて集まった。死後の世界の住人たちは、こぞってこのように言う。「重い肉体を脱ぎ捨てた、こちらの世界は本当に快適だ」と。それを聞いた人々は、みな安心して次々と自ら命を断っていく。数ヵ月後、人類のほとんどが死滅してしまった世界に、親も友人も尊敬する師も、誰も信じることのできなかった者だけがわずかに生き残り、戸惑いながらも新たな世界を作っていく。このような内容である。
 この物語を読んで私が思い出したのは、かつて善導大師(ぜんどうだいし)が中国の長安で布教していた際、その説法の迫力に感化された信者の一人が、柳の木の枝から西方に向かって飛び降り、命を絶ったというエピソードだった。それは恐らく、善導という僧がもっていた民衆への影響力を示すための逸話だったのだろう。真偽は不明である。ただ、そのように自らの命も顧みないほどに篤い信仰心というものを、現代を生きる私の眼から見るとき、共感や尊敬の念よりも、むしろ違和感が先立ってしまう。自らと比較して、そのあまりの異質さに一歩引いてしまうのだ。
 「身を粉(こ)にしても報ずべし」「骨を砕(くだ)きても謝すべし」と恩徳讃(おんどくさん)を歌うたびに、自分にはつくづく信仰心というものが欠けていることを思い知らされる。ある先生のお話のなかで、「真宗に生きる殉教者の振りをしていても、実は小指の先を失うことにだって耐え切れないくらい、死ぬことを恐れているのではないですか?」と指摘され、冷や汗をかいたことがあった。頭で否定するよりも先に、その言葉は自分の感情を言い当てていたのだった。まったくそのとおりで、信仰のために命を捧(ささ)げることなど、私にはとてもできそうにない。信仰の何たるかはよくわからなくとも、情けないことに、自らがその信仰に値しない人間であるということは嫌と言うほどによくわかってしまう。
 「信ずるものは救われる」とは聖書の言葉であるが、親鸞は「では、信ずることのできないものはどうすればいいのか?」という問いに生涯立ち続けた人であった。自らを、本願の救いから「唯除」される存在と自覚し、「愛欲(あいよく)」と「名利(みょうり)」にまみれる自身のあり方を、どこまでも慚愧(ざんき)し、悲しまれた。そして、その悲しみのなかに、そのような存在をこそ救おうと立ち上がった如来大悲の心を聞き取っていかれたのである。私がこの身を捧げるよりもずっと前から、その存在を賭けて私を願い続けてきた世界があったのだ。そのことへの気づきこそが、信心というものなのであろう。「身を粉にしても報ずべし」とは、決して殉教者の表白などではない。それは決して信じ切ることのできない私の存在を悲しまれた、如来の願いの深さを表す言葉なのではないだろうか。

花園 一実(親鸞仏教センター研究員)

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