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keyword:金融、智慧、大悲
Vol.119金融という宗教-edition religion and finance-ステファン・グレイス(親鸞仏教センター嘱託研究員)

 伝説によるとその昔、菩提達磨(ぼだいだるま)というお坊さんが、仏教を広めるためにインドから中国にやってきたと言われる。これが歴史的な事実かは疑われているが、この達磨の物語は「事実」を超える意味をもつ。
 達磨は中国に着いた直後、梁の武帝(464-549年)と面談した。そのとき、達磨は真実の理(ことわり)について説いたが、武帝には謎めいたものとして、その意味がまったくわからなかった。そのため達磨は座禅に入り、自分のメッセージがわかる人が現れるまでじっと何年も待ち続けた。そこに現れたのは、後に中国禅の二祖と呼ばれる慧可(えか)であった。慧可は、達磨の教えをどうしても聞きたいがために、弟子入りをこばむ達磨に自分の誠意を証明するため、自分の腕を切り落として差し出したと言われている。現代の学説では、この物語に史実的要素を求めるのであれば、慧可が強盗にあって腕を失ったという説がより蓋然(がいぜん)的であるという。しかし、この物語が史実か否かにかかわらず、今日まで語り継がれているということには、仏教徒の仏法に対する熱意が示されている。
 達磨は慧可の真意がわかると、話し相手になることを許した。そこで、慧可が達磨に頼んだ。「わが暴れる心を安らかにしてください!」と。それに対して達磨は、「さぁそれでは、その心を出して見せてくれ」と返した。慧可は、人間の心ほど曖昧(あいまい)なものはないのに、「物」のように出せと言われたことに大きな刺激を受け、自分の無明に因(よ)る相対的な考え方から目覚めさせられて、真実の奥義を徹底的に見通すことができた。そのようにして、達磨のメッセージが中国の人々のうえに明らかになったのである。
 現代の生活は、「心を安らかにする」誘惑が次々とやってくる。便利さや快適さへの誘惑など、欲望に直接訴えかける誘惑である。われらが「暴れる心」に従うだけだと、慧可のように不安に陥って不完全な存在となる。それをきっかけに、安らぎを仏教に求める人も慧可のようにいる。しかし、今日の世界においては、仏教が提供しようとする霊性的利益(れいせいてきりやく)に対して、疑いのまなざしを向ける人が多くなってきている。そして、内省を軽視し、欲望を満たすものばかりに心を奪われているように思う。それは、「金融」ということを見てみればよくわかる。
 キリスト教の伝説によると、利子を取る金融というものは、神の有様に背いているとキリストが判断したため、金融業者は礼拝堂から追い払われたと言われている。キリストは、金融があまりにも人の心をつかむので、布教を妨げるものとして見ていたかもしれない。または、その行為に本物の悪を見たのかもしれない。どちらにしても、今日の金融会社を利用する人には、その利用によって、より安らかな生活が手に入ることと信じている「信者」のような人がいる。中国語では、クレジットカードを「信用卡 (シンヨングカ)」と言うが、ほとんどの人がわかっているように、クレジットカード会社は契約の際、非常に細かい条件を立てる。実はそこに本当の「信頼」はないのである。クレジットカード会社のCMでは、優しそうな人ばかりが登場しているが、実際、返済が遅れた場合、無理やりにでも返させようとする人たちが、そんな優しい顔をしているはずがない。お金の貸し手は、借り手を信頼していないのに、逆に借り手は貸し手が信頼きるという妄想を信じている。今、目の前にあるものをつかめば、将来、心が安らかになると信じてしまう。金融会社はその妄想につけこんで、われらが知るべき大切なことに背を向けさせようと努めているようにすら思う。では、われらは何を知るべきか?
 親鸞聖人のような仏教聖職者は、対比しているように見える二つの概念、「智慧」と「大悲」から生ずる哲学的な問題に対峙している。われら人間は、今日まで伝えられているはずの「智慧」と「大悲」を措(お)いてしまって、未来を賭けてまで信頼すべきでないものを信じている。しかし、仏教では人間と人間を超えるものとの関係を作るものは、智慧と大悲であると教えられている。
 仏教の「智慧」は、われらに現実の本当の姿を見せようとする――すなわち、人間としての有限性に気づかせようとする。そして、われらに与えられてしまう悪は、形而上的な面から必然として逃げられないものが多い、と教えてくれる。智慧によって、「落ちるものの動きは、いつか必ず止まる」ということを理解することができ、物事には必ず「しまい」があるとわかるので、「善い」と「悪い」の細かい区別を超えることができる。また、「大悲」によって、失恋のコストを払わずに愛と喜びを十分に味わうことができる。なぜかというと、互いに利益を要求する「互恵協約(ごけいきょうやく)」を必要としないからである。
 仏教で教えられている人生をそのまま(自然法爾<じねんほうに>)経験するということ――または、自分を磨いて無私になり他人のためになにかをするということ(自利利他)――には美しさがある。喜ばしい運命に出会えば、大悲のおかげで嬉しさが感じられる。酷(ひど)い目に遭えば、智慧のおかげで「落ちるものの動きは、いつか必ず止まる」と理解でき、「美しい寂しさ」が感じられる。
 このように、仏教の教えにより、われらは人間としての最も美しい能力を掘り起こし、組み合わせることができる。そして、この教えにより、われらの心に安らぎが与えられる。慧可のおかげで、これをいただくために今は腕まで失わなくてもよかろう。われらが本当に「借りよう」としているものは、最初から目の前にあるのかもしれない。

ステファン・グレイス(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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