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keyword:迷惑、罪、十字架
Vol.121迷惑をかけられない時代と、迷惑な自分 内記洸(親鸞仏教センター研究員)

 当たり前のことだが、私たちには「好き嫌い」がある。楽しいこと、嬉しいこと、おもしろいことが好きで、辛(つら)いこと、悲しいこと、つまらないことが嫌いである。不快な思いをしたくはなくて、気持ちの良いことばかりあればいいなと思っている。だから、例えば「迷惑」ということについて言えば、人から迷惑をかけられるのは嫌だし、自分もできれば人に迷惑をかけたくはない。
 この「迷惑をかける」ということについて、数年来、忘れられない言葉がある。田舎にある実家に帰省した折、自坊のご門徒がポツリともらした、「他人(ひと)さまに迷惑はかけられん」という言葉だ。私が幼い時分、葬式とはお寺で勤めるものであり、亡くなった方の親類だけでなく近所中が寄り集まって準備するものであり、朝から晩まで一日中ワイワイガヤガヤやっているものだった。私が生まれる以前には、お寺で勤めるものですらなく、亡くなった方の家に近所の一同が集まって、やはりみんなで一日ガヤガヤとやっていたそうだ。今日(こんにち)はというと、ここ数年はお寺で葬式をあげることはめっきり減り、関係者が葬儀社の斎場に通夜と葬儀の時間帯にだけ集まって、セレモニーとしてコンパクトに行うのが通例となっている。葬儀会社でパックとして行う葬儀のほうが金銭的には高くつくのに、どうして昔のようにお寺や故人の家でワイワイガヤガヤやらないのだろう。「他人さまに迷惑かけられんから」、とはこの問いに対する答えである。昔のようにたくさんの人がお互いに時間を割き合って、一つの場を共有することができない。
 その理由として一つには、以前は迷惑ではなかったことが今や迷惑なことになってきてしまった――迷惑さの変質――ということがあるだろう。しかしここで考えたいのは、人間関係の問題として、「迷惑をかける/かけられる」ということ自体が私たち一人ひとりにとって非常に繊細な問題になってきているのではないか――迷惑さの深化――、ということである。個人の時間・都合に対して「迷惑をかけられない」という言葉の裏には、実は、「こちらにも同様、迷惑をかけないでくださいね」という意識が張りついている。
 高校の世界史では、「西洋近代社会」の理念・特質として「自由と平等」ということが教えられる。個々人の意志を尊重する「自由」と、誰もが皆社会的に公平であるという「平等」の理念が、どうして同時に成り立つのか、と当時はとても不思議な気がしたが、本来両立しえないこの「矛」と「盾」も、先ほどと同じ線引きをすることで矛盾なく了解できる。「それぞれがお互い邪魔にならない範囲(平等)で、それぞれ好きなようにしましょうね(自由)」、と。ある線引きとはつまり、「お互い、ある境界線から先には立ち入らないようにしましょうね」という自他の区分けである。つまり、「迷惑をかける/かけない」という表現は非常に謙虚な響きをもっていながら、その実、西洋近代の「自由と平等」の理念に通じるような、自己中心性を前提としている。問題は、しかし実際に、自分の思いどおりに、人に迷惑をかけなかったり、あるいはかけてしまった分の迷惑を埋め合わせたりできるのだろうか、ということだ。以下は、最近読んだ小説の、手紙部分の抜粋である。

 今年でもう二十年ですね。藤井くんのことを、ユウくんはまだ背負っていますか? 昔ユウくんに言われた「荷物を下ろせ」という言葉を、最近よく思い出します。それって無理だよね、と思うのです。わたしたちはみんな、重い荷物を背負っているんじゃなくて、重たい荷物と一つになって歩いているんだと、最近思うようになりました。だから、下ろすことなんてできない。(重松清『十字架』 p383)

 小説の舞台は「いじめによるクラスメートの自殺」であり、ここで言う「荷物」とは、直接には「いじめと自殺に何らかの仕方で関わっていたことの罪」である。ただ、この「罪」は明らかに、「級友の自殺」という個別の出来事を超えて、“誰であってもそれぞれに背負っていかなければならない罪”へと引き延ばされている。罪も苦しみも決してなくなることはない。生きるとは、決して下ろすことのできないものを、背負って生きることである。
 「迷惑」がなくなることもない。「迷惑」とは自分がかけたりかけなかったりできるものではなく、いつも「かかっている」ものである。『歎異抄』には、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という親鸞の言葉が遺(のこ)されているが、ここで言う「親鸞一人」も、いつも「迷惑」と共にあるような、そもそもその存在が「罪」であるような「親鸞一人」である。「五劫」という無限の時間は、「迷惑」や「罪」が、「私」という個人の手には収まることのない無限の背景をもっていることを象徴している。この「私」という存在や意識を超えて、どこまでも底なしに深まる「罪」に対して、私たちはそれを「思う」ことしかできない。

 南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔(さんげ)するになるともうすなり。(『尊号真像銘文』)
 南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞(いにょう)して よろこびまもりたまうなり(「現世利益和讃」)

 私たちは、「私が迷惑をかけてしまった」とか「あいつは迷惑な奴だ」といった発想から逃れられない。ただ、「南無阿弥陀仏」と口にすることで、「どのような生き方をしていても迷惑は『かかる』ものだよ」と教えられているのではないか、と思う。

内記洸(親鸞仏教センター研究員)

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