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keyword:驚き、感応・道交
Vol.129 本を読む 藤原 智(親鸞仏教センター研究員)

 現在の私には「研究員」という肩書がある。そこでやっていることは、基本的には文献研究である。本を読み、内容を分析し、中核的要素を抽出し、その意義を論ずる。そこには恣意(しい)を交えず、客観的妥当性が確保されねばならない。しかし私は、私自身がそのような研究姿勢をもった途端に、自分自身に嘘を感じてしまう。研究対象として文献に向かったとき、内容は理解できても、本当の意味で読めたとは思えない、ということである。

 年末の帰省ラッシュのなか、新幹線で東京から大阪に向かったときのこと。途中、周囲がカシャ、パシャ、ピロリロリーンとカメラの音で騒がしくなった。何事かと思い見渡すと、右手の窓から雪化粧をまとった雄大な富士山の威容が目に飛び込んできた。多くの人が、思わずその富士の山容を写真に収めようとしていたのである。
 そのなかで富士山のことを知らなかった人はどれだけいただろうか。恐らく、直接見るのは初めてであったとしても、ほぼすべての人が写真か何かで見たことがあっただろう。富士山の姿自体はことさら珍しいものでもない。その彼らが、そろってカメラを向けたのはなぜだろうか。もちろん、多くの人がカメラ機能付きの携帯電話を持ち、何でもかんでも撮る昨今である。ただの条件反射かもしれない。しかし、やはりその場で富士の威容を目の当たりにした私には、その行為に共感を覚えるのである。
 それは、陳腐な言い方であるが、「驚き」である。富士山との直接は、私が富士山を客観的対象として見た、というのではない。それは富士山が私を内から超えて聳(そび)え立ったという驚きの体験である。そうして、その体験せられた富士の威厳を何とか我が中に留めたいという無意識の欲求が、多くの人を写真に収めるという行動に向かわせたのではないか。そのように私には感ぜられる。
 卑近な例を出したのであるが、ある事柄について、「知ること」と「直接すること」とは、その質がまったく異なる。前者は私が対象を知ることであり、私と可分の関係である。後者は対象が私に表現してくることであり、私と不可分の関係になる。今の自分を在(あ)らしめた人物や言葉、あるいは絵画や音楽など、誰にでも思い浮かぶのではなかろうか。魂に刻まれたその体験は、言わば個を超えた生命と生命との交流である。そのような質の体験こそ、本当に意義のある体験となるのである。

 話を始めに戻そう。本を読むとき、殊に研究という分野において、客観的妥当性というものが十分に確保されなければならない。そのことを承知のうえで、あえて言うのであるが、客観的妥当性を意識した眼では本当に読むということはできないと思うのである。そこには知識を授受するだけの、本質的に私とは無関係な、冷たい関係があるだけである。私を抜きにしては、客観的妥当性はあっても、思想としての普遍性はもちえないであろう。
 おおよそ本は読者に何かを語りかけようとするものである。その声に耳を澄ます。そうして、その本が私に語りかけてくる声を聞けたとき、そこに熱き血潮を感ずる。その感応こそ、生きた思想となるのである。本を読むとは、このような質をもつものでなくてはならない。少なくとも、親鸞はこのような姿勢で仏典に向き合ったのである。
 そうは言いながら、懈怠(けたい)に過ごす日々。聞かなければ何も聞こえない。

親鸞仏教センター研究員 藤原 智

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