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keyword:オリンピック、コロナ、祈り
Vol.206 明日、生きて再び夕日を見ることができるだろうか? 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真

 東京オリンピックの延期が決まってから2カ月余り。延期を発表した安倍首相は「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして完全な形で東京大会を開催するために」と述べた。つまり来年の東京オリンピックは、人類がウイルスとの戦いに打ち勝ったことを誇り、祝福するイベントとなる。私はこれに違和感を覚える。もちろん首相としては、前向きな力強いメッセージを打ち出す必要があったのだろうし、苦難を乗り越えたアスリートたちの活躍は観る者の心に響くだろう。しかし、ウイルスに「打ち勝つ」前に多くの人がすでに亡くなってきたし、これからも亡くなってしまうだろう。世界の感染者数は6月上旬時点で700万人に迫り、死者は40万人超、二日に約1万人(地域によってはもっと多い)のペースで人々が亡くなっているのである。そんな中で私たちは勝利を証しだてするばかりのオリンピックを心待ちにし、その凱歌に酔うことができるだろうか? 日本では大規模感染の「終息」が云々され始めたとはいえ、私たちは果たして来年の夏に自分自身が祝福する側に加わっていられるという確信を持てるだろうか?

 私は以前訳出した英書の一節を思い出した。第二次世界大戦中、一兵卒としてパラオ諸島ペリリュー島の強襲上陸作戦に参加した米兵の回想録だ。1万人を超える日本軍守備隊との死闘を翌朝に控えた日の夕刻、ペリリュー島の沖合に集結した米艦隊の戦車揚陸艦(LST)に乗り組んでいた著者は、こう語る——。

夕食を済ませた私は、仲間と二人でLST 661の手すりに寄りかかり、戦争が終わったら何をしたいか語り合った。私は翌日のことは気にかけていないふりをした。相手も同じだった。二人とも、相手と自分を少しは欺くことができたかもしれない。だが、本心を隠し通すことはできなかった。夕日が水平線のかなたへ沈み、鏡のような海面に照り映えていた陽光も闇にのみ込まれていく。これまで眺めてきた太平洋に沈みゆく夕日は、いつ見ても美しかったことを私は思い起こしていた。故郷のモービル湾に沈む夕日よりもさらに美しかった。そのとき、ある思いが稲妻のように私を貫いた——自分は明日、生きてふたたび夕日を見ることができるだろうか? パニックに襲われた私は、膝から力が抜けそうになった。私は手すりを握りしめ、会話に夢中なふりをした。 (E・B・スレッジ著、『ペリリュー・沖縄戦記』)

 各国の多くの人たちと同様、私たちもまた、こう自問せざるを得ない状況にあるのではないだろうか——「自分は明日、生きてふたたび夕日を見ることができるだろうか?」。私たちは報道などで目にする感染者数や死者数をつい統計数字として扱い、「何十人」を下回ったとか、日本の死者数は世界的に見て極端に少ないなどと、他人ごとのように考えてしまう。しかし実際は、その数字の裏には一人ひとりの掛けがえのない生があり、みずからもその一人になるかもしれない。この現実を「気にかけていないふり」をし通すことはできるだろうか? いざ自分や近しい人が当事者となった時、落ち着きや思いやりをもって向き合えるだろうか?

 先日、大学がオンライン授業となって在宅中の娘が遠藤周作の『沈黙』を読んでいた。激しい苦しみの渦中にあるキリシタンたちに、神はなぜ沈黙したままなのか? 実は先の米兵は戦場で、「おまえは生き延びる」という神の声を聞いている。極限状況に立たされたとき、人は何に救いを見出し、明日に向かって歩むことができるのか……今、宗教研究者のはしくれとして、改めて宗教の意味を問わざるを得ないと感じている。

 安易なことを言えば、誰かを傷つけたり、厳しい非難に直面するかもしれない。だが問いをやめれば「気にかけていないふり」に逆戻りだ。今、漠然と感じているのは、祈りの力、そして聖典の力を見直してみてはどうかということだ。祈りの力とは、物理的に疫病を取り除くマジカルな力ではなく、何か大きな存在に手を合わせるという行為が持つ力だ。神や聖人、仏菩薩など聖なるものへ語りかける祈りもあれば、ただ内奥の思いを心の中で唱える祈りもあるだろう。同じく祈りを捧げている人たちとのつながりを感じることもあるだろう。日常の中に祈りという要素があることがポイントだという気がする。聖典の力も、それを読誦したからといって疫病神が物理的に退散するわけでもない。私は普段は難解な経論書や論文を読み、小難しい概念をこねくり回している。しかしそんなことよりも聖書なり仏典なりを静かな心で読むというそれだけのことに、むしろ何か深大な力が秘められているような気がする。祈り(そこには諸宗教それぞれの形の瞑想を含めてもいいだろう)や聖典に、とてもシンプルな形で改めて向き合ってみてはどうかと思っている。

 夕日を見ながら「稲妻」に打たれたあの米兵は幸いにして、神の声のとおりに第二次大戦を生き延びた。だが多くの戦友は(そして日本軍の将兵も)ある日を境に二度と夕日を見ることはできなかった。私たちもまた、多くの人々とともに、自分がそのどちら側になるかわからない中で来年のオリンピックまでの日々を過ごす。そんな中、少なくとも確かだと思うのは、「完全な形で東京大会を開催する」ことなどあり得ないということだ。来夏、全競技・全日程を無事に消化できたとしても、コロナ禍により何十万もの人たちが目にすることのできなかったオリンピックが「完全な形」なわけはない。自分が幸いにしてその「打ち勝った証し」を祝福する側に入れたとしても、開会式の晴れやかな光景を見ることができなかった多くの人のことを忘れないでいたい。だから東京オリンピックは、その欠落に思いを向ける祈りの催しにもなるはずだ。 (2020年6月)

伊藤 真(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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