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Vol.36:仏の子と仏弟子  嵩 海史  『見てらっしゃる おてんとうさまが』(盛永宗興他著 宣協社)に、寺川俊昭(大谷大学名誉教授)先生はある男のエピソードを書いている。
 戦後間もないころ、先生のお寺に30歳くらいの男性がやって来た。寺の玄関でその男は、先日どこそこの刑務所を出たばかりで故郷へ帰りたいのだが、汽車賃がなくてこの町までしか来れなかった。だから、汽車賃をくれと乞うたのだった。それで先生が、どこの刑務所を出たのか、故郷はどこなのかと尋ねると、その男はシャツの下から隠し持っていた短刀を取り出して、玄関の畳に突き立てお金をくれと脅迫まがいのことをしだした。なんでお寺に来たのかと先生はおそるおそる聞いてみると、その男は理由を話しだした。「お寺へいくと、断わられないで、たいてい何かくれるからだ」と。さらに「実はわしは子どものころ、お寺の日曜学校へ通っていた。それでお寺の前に来たときに、懐かしいものを感じて、入ってきたのだ。嘘だと思うかもしれないが、歌を覚えているぞ」と言って、
われらは仏の子どもなり うれしいときも 悲しいときも 御(み)親の袖(そで)にすがりなん

と歌いだしたのだった。その男の表情は和やかになり、すまなかったと短刀をしまって先生に謝ったという。
 この男にどんな心境の変化があったのだろうか。仏から“わが子”と呼びかけられた温かい気持ちを感じることができたからであろうか。本当のところはわからないけれど、「仏の子」という言葉が、その男の内面に大きく訴えかけるはたらきがあったに違いない。
 仏の子と似た言葉に、「仏弟子(ぶつでし)」という言葉もある。具体的に言えば、帰敬式(〈ききょうしき〉、おかみそり)を受けて法名をいただくと、私たちは仏弟子になることができる。その際、三つの髻(もとどり)をきるという『口伝鈔』の話もしばしば聞かされるところである(『真宗聖典』661頁、東本願寺出版部)。また、安田理深先生は仏弟子になるについて、「身にあまる光栄をいただいたと言うべきであろう」と語られたという。だから、仏弟子になるということは、内省的な自覚を伴いつつ、仏陀の教えに導かれながら生きることを意味していると言えよう。
 だが、ここで疑問が生じる。なぜ、私たちは「仏の子」であるのに、さらに「仏弟子」になる必要があるのか? 身近な感覚でいうと、法律上の財産などの相続では、子と弟子を比べると血のつながりがある子のほうが親しい関係だからである。
 子から弟子への移行を、ある意味で現実に行為した例として、大相撲の若貴兄弟の弟子入りがある。弟子入り以前は(当時の)藤島親方の実子であって、親方の弟子ではない。以前から、同じ相撲部屋兼自宅に同居していたけれど、子ども部屋を捨てて、相撲部屋へ生活の場を移し、晴れて弟子になることが適ったのである。
 この例を敷衍(ふえん)すれば、子は生まれたら子として位置づけられる。なろうとしてなれる性質のものではない。だが、弟子はなるものであって、なるには自覚、覚悟、儀式のようなものが必要である。相撲と仏教を同列に扱うことは問題があるかもしれないが、「仏の子」と「仏弟子」の関係も、これと似た関係なのではないか。

嵩 海史(親鸞仏教センター研究員)

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