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Vol.51:幸せとは 山本伸裕  “幸せ”が“仕合せ”と表記されているのをときどき目にします。これはしかし、たんなる小洒落(こじゃれ)た当て字ではなく、実際、昔の日本人はそう書いていたようです。 文字どおり“仕合せ”とは、何かと何かを“しあわせる”ということです。ですから、私たちが何らかの物事を為し合わせようとする際には、私たちは自分の外部の、他なる存在を見ることになります。あるものとあるものを仕合わせるためには、それらはもともと別物である必要があるということです。
 幸せを願わずにはおれないのが人間の性(さが)であるとすれば、それは、私たちの生活が「他なる存在」=「異質の他者」に取り囲まれて営まれていることの裏返しです。他者というものが異質であればこそ、私たちは異質の他者との仕合せを強く願わずにはいられないわけです。
 私たちを取り巻く他者には、自然環境を含め、さまざまなものが考えられますが、なかでもとりわけ私たちに異質の他者として強く感じられるのが、「他人」という存在ではないでしょうか。ここで「他人」というのは、見ず知らずの他人のことだけを指しているのではありません。肉親であれ親友であれ、自分とは異なる業(ごう)を生きてきた存在である以上、この私にとって彼らはどこまでも絶対的な他者なのです。
 こうした「他者の他者性」の認識は、幸せを願う人間にとって、欠くことのできない原点であるように思います。私たちが、それぞれ個性をもつ存在であるということは、それぞれに異なる「望み」をもって生きているということでもあります。ですから、かりに他人の個性(他者性)を認めないとすれば、私たちは強引に他人の「望み」を自分のそれに合わせようとするか、でなければ、己(おのれ)の殻にこもるしかないのです。  他者との間で「望み」を完全に一致させることは不可能です。しかし「望み」ではなく、「願い」であれば、それを共有して生きていくことは決して不可能なことではないと思います。
 「望むこと」と「願うこと」は同じことではありません。「望み」が私的であり得るのに対して、「願い」は公正無私なるものだからです。「願い」を共有するというのは、よりよい生のために、それぞれの「望み」を仕合わせながら生きていくということ、他者の「望み」の多様性を認めつつ、なお共に生きていくことの途(みち)があることを信じるということなのです。
 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の願は、それに私たちが触れることで往生が約束されるとともに、その大きな願いは、この穢土(えど)において共有されることになることでしょう。弥陀の本願は、衆生の個別の希望を叶(かな)えるために立てられたものではありません。その意味で、人びとが如来と共通の願いを分かち合うことを通じて、この穢土においてそれぞれの「望み」を叶えていける。そのような“仕合せ”の実現された世界のあり方として、浄土というものは象徴的に語られているように思います。

山本伸裕(親鸞仏教センター研究員)

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