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Vol.60:なつかしさの正体 山本 伸裕  何年かぶりに訪れた故郷の風景の変わりように、どこか言い知れぬ淋しさを覚えた、そんな経験をもつ人は少なくないであろう。そうした感傷が湧(わ)きおこってくる背後には、おそらく常なるもの、変わらぬものに対する人間の希求心【エロース】のごときものが指摘できるのではないか。
 「諸行無常」を説くのが仏教であるとすれば、仏教からすれば、希求心なるものは、基本的に否定されなければならない一種の煩悩なのだろうか。あらゆる物事は変わり続け、一刹那(せつな)もとどまることがない。このことを真理として、仏教は繰り返し教えてきたのである。ただ、仏教は必ずしも「積極的に変化を求めよ」と教えてきたわけではない。したがって、むしろ「無常」の教えの真髄は、「執着を離れよ」ということにあると考えられる。
 芭蕉が平泉(ひらいずみ)の高館(たかだち)で詠(よ)んだとされる俳句、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」は有名である。この句は、『奥の細道』に綴られているように、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という唐の詩人・杜甫の「春望」を思い起こしながら詠まれたものであるが、そこで芭蕉は「笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし」たと述懐している。
 兵どもの夢にしても、戦い破れて消えていった国々にしても、その背後にはたらいているのは、冷徹な「無常」の真理であることは間違いない。けれども、人びとの夢が破れてなお残る何かがそこにはある。芭蕉はその何かを、巡り巡る春夏の草木、あるいは山河といった風景をとおして如実に感じとったのである。
 仏教が「諸行無常」を説くのは、裏を返せば、移り変わる世界の基底に「変わらぬもの」のあることを表現せんがためであったと言うこともできる。そして、宗教というものの一つの重要なはたらきが、人びとに「安心」を与えるということに見いだせるとするなら、究極的に「変わらぬもの」があってこその「安心」であるに違いないのである。
 そうした、究極的に「変わらぬもの」を、仏教は「法身(ほっしん)」という言葉で言い表した。「法身」とは、形なき不変の真理のことであると言ってもいいが、有限な身を生きている人間には、そのような形なき真理そのものに出遇(であ)うことはできない。だから、私たち生身の人間がその「法身」に触れるときには、それはいつも個別・具体的なかたちをとって顕現してくるもの以外にない。私たちが、しばしば故郷の風景などといったものに「変わらぬもの」を求めてしまうのは、あるいはそこに無意識にではあれ、不変にして絶対なるものを見てとっているからなのではないだろうか。

山本伸裕(親鸞仏教センター研究員)

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