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Vol.65:二重化する生 越部良一  「他力の往生」に関して、証空は「心の乱れん時も、仏に任せ奉(たてまつ)りて…南無阿弥陀仏と申すばかりなり」というように言ったあと、こう述べる。「かくの如くひしとこころ得るところに、ふっと往生をばするなり」(証空『安心鈔(あんじんしょう)』)。
 「人の生くるはパンのみによるにあらず。神の口より出づるすべての言葉による」と聖書にある。パンによる生命と神の言葉による生命という、人間の生のこの二重化は、ソクラテスでは、単なる生と善(よ)き生として、次のように表現される。「一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである」(プラトン『クリトン』久保勉訳、岩波文庫)。ヤスパースが人間存在のあり方として区別する「現存在」と「実存」は、この二重化に対応している。そこでは、死もまた現存在の死(物質的、生物学的な死)と実存の死とに二重化する。「実存の死にあっては……生物学的な死は全くの絶望となる」(ヤスパース『哲学』)。逆に言えば、こうである。実存的に生きる限り、人は肉体的な死を、絶望を超えて引き受けうる。この二重化にあって、実存的な生の意義は、肉体上の生を凌駕(りょうが)するのであるから。善き生を目指すゆえに刑死したソクラテスの生死はこのことを証する。
 往生とは、浄土に往きて生まれること。それは南無阿弥陀仏においてあるから、現世の称名のうちで、濁世(じょくせ)の生と浄土の生の二重化が生ずる。往生におけるこの二重化は、上で述べたような二重化に相応している。南無とは帰命であって、『安心起行作業抄(あんじんきぎょうさごうしょう)』(伝法然)によれば、「帰命というは、命を奉るという心なり」。
 こうした二重化は、例えば『歎異抄』に「親鸞一人がため」とあるように、ひとえに個人のうちでの二重化であるのだが、この二重化の根源は、生死にあるのではなくて、人間を超えた永遠者、「神」と言われ「善のイデア」と言われ「仏」と言われるもののうちにある。それに応じて、生物学的なものとしての生命も死も、それ自体としては、宗教あるいは哲学の玉座に坐りえないということが分かる。
 だから、往生の本質は死ぬことではない。「二重化」とは、二つのもの(実存の生と現存在の生、浄土の生と濁世の生等々)が、時間的に言えば、一つの同じ時点で生ずるということを意味している。しかし、実存と言い浄土と言い、眼前にあるものではないから、この「二重」ということもまた対象的に捉(とら)えられはしない。この二重性を自覚するのは、肉眼とは違った眼である。根源的には超越者に由来し、それゆえ人間が思うままに作り出せるわけではないこの自覚のはたらきを、ヤスパースは「瞑想(Meditation)」と呼んでいる。「こうした瞑想は、実際ちょとした瞬間に生じ、どんな時にでも起こり得るし、頭に思い浮かぶのに30秒もあればよいのです。それは、人が真摯(しんし)になるなら、たった一度であれ、起こるにちがいないことです」(ヤスパース『挑発(Provokationen)』)。「真摯」とは、いかに生くべきかに思いを集中することである。往生というもまた、そのように、日常のふとした瞬間に、他の誰に気づかれることもなく起こりうる。

越部良一(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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