親鸞仏教センター
お問い合わせ
 
「現代を生きる人々」と対話するために
HOME親鸞仏教センター概要アクセスサイトマップ
濁浪清風今との出会い研究活動報告出版物紹介講座案内ブックレビュー
 HOME > 今との出会い
keyword:六字名号、松尾芭蕉、皮膚感覚
Vol.87:message 山本伸裕  松尾芭蕉の「野ざらし紀行」に、次の一段がある
 ――富士川のほとりで、三つぐらいの捨子が泣いているのに出くわした。拾う者がなければ、今夜、明日にも散り萎(しお)れてしまう「露ばかりの命」を待つ哀れな身であることは明らかであった。が、しかし、芭蕉は袂(たもと)から少しばかりの食べ物を投げ与えて通り過ぎる。その際に、書き残した言葉。
  「汝父に悪(にく)まれたるか、母に疎(うと)まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。たゞこれ天にして、汝が性(さが)の拙(つたな)きを泣け。」 
 なぜ芭蕉はこの幼子の命を助けなかったのか。「汝が性の拙きを泣け」とは、あまりに冷たく突き放した、無責任な態度だと難ずることは容易(たやす)い。しかし、彼にそうさせたのはいったい何であるか。
 日々、私たちは判断し、自らの行動や態度を決定しながら生きている。だが、そうした決定は、実際のところ、何に基づいてなされているのだろうか。現代人の多くは、自らの判断が理性によって導かれていると信じているのかも知れない。おそらく、どの時代にも況(ま)して、理性、つまり頭で物事を判断していると考えがちなのが現代人なのではないか。
 だが、理性によって物事を究極的に判断することは可能だろうか。私たちは最終的には自らの皮膚感覚のようなもので判断しているのではないか。理性で考えている限り、いつまでも最終的な結論は出ないであろう。理性によって、ある事柄の判断項のすべてを比較・検討するとすれば、その数はほぼ無限に近い数にのぼってしまうからである。
 判断や行為に際して、私たちは己の皮膚感覚、感性を、どこまで信頼していいものか。ヨーロッパの哲学の伝統においては、理性は誤らないのに対して感覚は常に誤るものであるといった考え方が根強い。実際、感性はしばしば誤る。だからといって、私たちは最終的には、私たちの皮膚感覚、直感のようなものに頼らなければ、現実の世界で自らの態度を決して生きていくことができないのである。
 浄土教が南無阿弥陀仏の六字の名号を与えたのは、自力に躓(つまず)いて身動きのとれない私たちに、心に小さな空白を作ることで、いらぬ計らいを捨て、直下に阿弥陀の声を聞くことを勧めるからではなかったか。このことは、一見、極めて無責任なやり方に思える。だが、そうすることなしに、私たちのはからいは、如何なる行為も導き得ないというのが、真宗の教えのハートなのである。
 阿弥陀の声は、私たちの皮膚感覚として、心に空けた小さなスペースに呼びかけてくる。如来回向とは、実にこのことであろう。芭蕉もまた富士川のほとりでそうした声を聞いたのであろう。芭蕉のとった行動は、そのときの彼の皮膚感覚として、正しい行いであったに違いない。

山本伸裕(親鸞仏教センター嘱託研究員)

最近の『今との出会い』一覧
Backnember ページトップへ
濁浪清風今との出会いブックレビュー
研究活動報告出版物紹介講座案内バックナンバー一覧
親鸞仏教センター
MAP
親鸞仏教センターfacebook

親鸞仏教センター [真宗大谷派]<br>〒113-0034 東京都文京区湯島2-19-11
TEL 03-3814-4900 
FAX 03-3814-4901 
mail:shinran@higashihonganji.or.jp
 
掲載の記事・写真の無断転載を禁じます
Copyright©The Center for Shin Buddhist Studies. All rights reserved.
ホーム 親鸞仏教センター概要 講座のご案内 スタッフ紹介 バックナンバー一覧 リンク サイトマップ アクセス