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keyword:終末論/差別/社会
Vol.90:終末について

 ロバート・シルヴァーバーグの短編小説に、タイムマシンで「地球最後の日」を観光に行くことが流行するという作品がある。優雅なパーティーの席で上流階級の男女が今しがた見てきたばかりの「世界の終わり」について楽しげに談笑しあうのである。確かに、未来のいつでも好きな時間に行けるとなれば、「世界の終末」を見てみたいという気持ちはわからないでもない。ダグラス・アダムスの小説にも、「宇宙の最後の瞬間」をショーとして見物させるレストランが登場する。「終末もの」というジャンルはSF小説として確立されている。ここからみても、どうやら人間というものは主体としての個別の人間の終末には恐怖を覚えるのに対して、集団的、あるいは客体的な終末というものには恐怖より好奇心が勝る、という独特の習性をもっているらしい。
 ところで、「終末」は小説の中だけではなく、しばしば現実社会の中にも顔を見せる。「世界の終末が近い」という言説は、おそらく人類の文化の始まりと同じころから語られてきたことだろう。歴史上には、その具体的な日付(あるいは時刻まで)を予言したという人物が数限りなく出現している。奇妙なことに、それらの予言が的中した試しは(当然ながら)かつて一度たりともないのにも関わらず、世界が滅亡するという言葉を吐く人間はいまだに現われている。1999年のことはまだ記憶に新しいし、最近は2012年や2050年などが「終末の年」として流行のようである。これもひとつの、終末に対する好奇心のあらわれなのかもしれない。
 「世界が滅亡する」という予言が、これほどに人の心を引きつけるのには、人間のもつ「未知なるものへの好奇心」以外にも原因があるように思える。ひとつには、現実の社会に対する言いようのない違和感というものがあるだろう。現実というものは、常にどこかいびつで、理不尽で不条理なものを抱えている。その不条理感を一気に解消する手段として、今ある世界をいったんすべて消し去って、最初からやり直したいという思いが、「世界は間もなく終焉(しゅうえん)を迎える」という予言に引きつけられる要因となっているのではなかろうか。
 ところが、終末にはもうひとつの側面がある。自分たちにとって都合の悪い世界、自分たちの集団に敵対する存在を一気に消滅させて、自分だけに都合のいい世界をつくってしまいたいという願望もまた、終末を待望する心理には込められているのである。その典型的な例が、キリスト教の『ヨハネの黙示録』に示された世界の終末と来るべき神の国の予言であろう。間もなくこの世の悪が神の力によってすべて滅ぼされるという予言は、ローマ帝国の迫害に苦しんでいた初期キリスト教徒たちにとって大きな慰めとなっていたことは間違いない。しかし、キリスト教が力をもつにつれて、終末の予言は「生き残る者たち」の選民意識を強め、「滅びていく世界」に対する差別感情を増大させることにもつながっていった。キリスト教の異教徒や異民族に対する差別意識の根底には、この「終末感」があるといっても過言ではない。
 もちろん、この意識はキリスト教だけにとどまるものではない。現代においても流布している「世界の終末」に関する予言には、一部の「エリート」、つまり終末の予言者とその信者たちのサークルだけが終末を生き延び、その他の「愚かな」、つまり予言を無視する大衆は滅んでいくという物語がつきものである。特定の民族や国民だけが生き残るなどという予言に至ってはまさになにをか言わんやである。このような類の「予言」なるものは、単に彼ら「エリート」の根深い差別意識のあらわれとでも評するほかはなかろう。
 しかし、このような予言がある一定の人々の心を引きつけるのには、そこにやはり「現実への違和感」、言い換えれば「現実の中での苦悩」があるからであろう。ひとりひとりの力は現実の前ではあまりに小さく、社会の不条理さを人間の努力だけで解決することは困難きわまりない。その現実の事実に直面したとき、それを一気に解決してくれる「終末論」という〈機械仕掛けの神〉(デウス・エクス・マキナ)に飛びついてしまうのにも無理はないといえる。しかし、終末論は決して現実の問題を解決してはくれない。「自分だけは終末を免れるエリートなのだ」と思い込んでみたところで、それは現実の苦悩をいわば差別や妄想という別の苦痛に置き換えているだけである。それは、かえって現実から眼をそらしてしまっているに過ぎないのである。
 仏教では、現実の世界を「末法濁世(まっぽうじょくせ)」と呼ぶ。これもひとつの終末思想といえるかもしれないが、一部の選民だけが救われるという終末思想と根本から異なるのは、その「濁世」の「濁り」というものが、他ならないこの「私」の身の現実の上に現われているという自覚に立つという点であろう。現実の苦悩は、私の他の誰かのせいなのではなく、他ならないこの「私」がその不条理を引き受けねばならないという自覚が、仏教の「末法」という思想には込められているのではないだろうか。
 シルヴァーバーグの小説では、人々はテレビから流れる実際の世界の危機を告げるニュースには無関心に、自分たちの見てきた「世界の終わり」の話題に熱中している。「終末」を自分だけは逃れられると考えることが、現実への眼をふさいでしまうことをこの小説は描いている。今を生きる私たちは、確かに理不尽で不条理な世界を生きていかざるを得ない。そうであるからこそ、この現実から逃避することなく、この世界の現実を引き受け、それと向き合っていかなければならないのである。

常塚聴(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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