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keyword:幸せ、空過
Vol.90:幸せということ  今年も年が明けてはや一ヶ月が経った。毎年正月になると日本中の神社仏閣は、今年一年の幸せを願うために繰り出した初詣の人々で大賑わいである。皆少しでも幸せになりたいと願っているのだろう。
 では、皆が求めている「幸せ」「幸福」とはいったいどういうものなのだろうか。「幸福」の定義は、「不自由や不満もなく、心が満ち足りている・こと(さま)。しあわせ」(大辞林)とある。具体的に何に対して不自由や不満がないことなのかといえば、自分や家族の健康、経済的なことなどだろう。現代は物質的にはどんどん豊かになっているし、医療など科学の進歩も目を見張るものがある。経済や健康を「幸せ」のひとつの条件だとすれば、かなりの人がその恩恵を享受しているはずである。それを考えれば、昔に比べると、心は満たされ、格段に「幸せ」になっていてもいいように思える。しかし、現実にどれだけの人が「幸せ」を実感しているのだろうか。
 幸、不幸を感じる感覚は極めて個人的で相対的なことだと思うが、毎日のように目にする殺伐(さつばつ)としたニュースなどを見ても、多くの人々の心が満ち足りているとはとても思えない。
 なぜか? 考えてみると「幸せ」を願うときには、必ず「私の」という言葉が付く。「私の健康」、「私の家族の健康」、「私の経済的安定」・・・。「幸せ」は「私」の欲望を満たすことと同義になっているのではないだろうか。私の思いどおりになること、それが「幸せ」なのだ。人間の欲望は際限がない。それを仏教では煩悩の「貪(とん;むさぼること)」と押さえる。欲望達成を「幸せ」ととらえるなら、自分の欲望を満たすべく永遠に「幸せ」を求めながら生きて行くしかないのだ。
 ところで、「幸せ」「幸福」の反対は何かというと「不幸」である。自分の思いどおりになることが「幸福」なら究極の「不幸」は「死」である。なぜなら「死」ほど自分の思いどおりにならないことはないからだ。そう考えれば現代の社会ではなるべく「死」を遠ざけ、見えないようにしていることが頷(うなず)ける。
 しかし一方で、自分の欲望を満たすことだけでは幸せにはなれないことに多くの人は気づいているようにも思う。それは必死で自分の欲望を満たそうとしても、そこに何かある種の「空しさ」を感じるからだろう。天親菩薩はそれを「空過(くうか)」と言っている。

本願力(ほんがんりき)にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
  煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし(高僧和讃『真宗聖典』490項)

 一切衆生を救い取らずにはいられないという如来の本願力は、今ここに、すべての人に届いている。そのひかりに気づき、自らの足を本願の大地にしっかりと据えることができるならば、「私の」という我執を超え、空過を超える道が開けるに違いない。

大谷一郎(親鸞仏教センター嘱託研究員)

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