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善悪はどのようにして決まるか

河野 哲也 kono tetsuya
■ はじめに
 今年の五月から裁判員制度が開始されました。この大きな制度改革は、「法とは何か」、「善悪をいかに判断すればよいか」といった倫理学的な問題を私たちに突きつけてきます。二〇〇七年に上梓しました拙著『善悪は実在するか―アフォーダンスの倫理学』(講談社選書メチエ)では、法と道徳の関係性を問い直し、善悪の判断がどうなされるべきかについて論じました。本稿では、そこで論じたことをご紹介したいと思います。
 
■ カントと法
 私たちは、通常、道徳と法をきわめて近いものに考えています。民法はともかく、刑法は私たちの善悪の観念を表現したものに思えますし、道徳的であることとはルールを遵守(じゅんしゅ)することであるように思われます。
 道徳を法的に捉える代表的な哲学者として、カントがあげられます。カントは、ある行為が道徳的かどうかは、その行為を普遍化(=法則化)できるかどうかにあると考えます。自分の物が盗まれたくないならば、人の物は盗むべきではありません。盗難は普遍化できないので、悪なのです。
 普遍化は理性の能力ですから、道徳は理性に基づいていることになります。カントに従えば、道徳規範は、理性によって与えられる定言命法(ていげんめいほう)、すなわち、普遍的に適用される無条件の命令なのです。感情から生じる判断は公平性を欠きがちであり、道徳的とは言えません。道徳と感情を切り離す点がカントの倫理学の特徴であり、十八世紀にアダム・スミスやルソーが唱えた道徳感情論と大きく異なる点です。
 道徳の法則性を重んじるカントの立場は、「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利に関して」(一七九七年)という論文でもはっきり表れます。そこでは、たとえ暴漢から友人を庇(かば)うためであっても嘘をついてはならないという持説が擁護されます。誠実であることは定言命法であり、嘘はどのような場合でも許されません。なぜなら、不正の人である暴漢に嘘を返すことは構わないとしても、他方で、嘘は「法の根源を役に立たぬようにすることにより、人類一般に損害を与えてしまう」からです。誠実な発言が友人に損害を与えたことは単なる偶然ですが、嘘は必然的に法の基盤を危うくします。道徳的な公平性と普遍性は、法の基礎として維持されねばなりません。カントにとっての理性とは、法に直結するものなのです。
 カントの考えでは、道徳的判断は自分の内なる理性の声を聞くことになりますが、ここには二つの大きな特徴が見られます。
 ひとつは、道徳が内面化されることです。カント以前の道徳感情論では、道徳とは人間どうしの直接の関係性、つまり共感に基礎を置くものでした。しかし、感情的であり身体的である共感は、カントにとっては道徳の基礎とはなりえません。
 第二に、道徳判断が法則的になったことです。カントの認識論はニュートン物理学に強く影響されていました。物理学の仕事が一般法則を見いだすことにあるように、道徳的判断も法則的判断と見なされるのです。こうした道徳の法化(道徳を法のように見なすこと)は、近代社会が要請したものでもあります。近代社会の個人には、法的秩序を内面化した自律的存在であることが求められているからです。
 
■ 法的道徳観の問題
 カントの道徳観は現在でも有力な立場であり、これまで、日本の哲学や法学でも大きな影響力をもってきました。しかし、そこには固有の問題があります。
 まず、道徳の主観主義化が生じることです。カントによれば、人間に内在する理性は、普遍的で客観的な能力です。ですが、実際上、私たちの判断が普遍的で客観的であることには、何の保証も与えられていません。そうなると、自分の内面の声に従う態度は、己の主観的判断をそのまま肯定すること以上ではなくなります。そして最終的に、道徳的判断とは主観的なものであり、人それぞれだという相対主義に陥っていくでしょう。しかし相対主義は一貫した立場として成立しそうにありません。「道徳は時代や個人に相対的だ」などと言っている人も、実生活では、法律には諾々(だくだく)として従っているのですから。
 また、道徳が法のように捉えられると、道徳的な態度とは、ルール遵守や秩序維持を意味するようになります。法は主権者が設定したものです。すると、悪とは、特定の誰かの利益に対する侵害であるよりも、社会秩序の混乱あるいは主権者への反抗として理解されるようになります。善とは、特定の誰かの利益に配慮することであるよりも、社会秩序の維持や主権者への服従として理解されるようになります。
 道徳の法化の最大の問題点は、行為の道徳的意味が見失われることです。「殺さないでくれ」という訴えかけは、本来、誰よりも殺されようとしている被害者本人やその家族や友人からやってくるもののはずです。しかし、相手から発せられる「殺すな」という訴えかけが「人を殺してはいけない」という一般的なルールに変換されてしまうと、道徳の問題は、生身の人間の叫びに応じるかどうかではなく、主権者の命令に従うかどうかという問題に変質してしまいます。
 
■ 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問い
 そうなると、そこから「なぜ人を殺してはいけないのか」といった道徳の根拠を問う疑問が生じてくるでしょう。この問いは、道徳が行為者と行為の対象となる人との関係性であることが忘れられ、行為者と権威(法・主権者)との関係性として理解されたときに生じる問いです。人間どうしの関係性が権威によって媒介されることによって、道徳性は規格化され普遍化されます。これによって、道徳の意味が変容し、人間関係的な元来の意味が見失われていくのです。
 実際に、現在の裁判では、こうした意味の喪失が問題となっているのではないでしょうか。たとえば、現在の司法制度の問題として、被害者は司法過程からほぼ完全に排除され、裁判にも実質的に何の関与もできないことが指摘されています。また犯罪者は法廷で、被害者にではなく、裁判官に向かって反省や謝罪を述べます。考えてみればこれはおかしなことです。犯罪者は、裁判官が代表している国家に対して何をしたというのでしょうか。彼らは、社会秩序を乱したなどという雲をつかむような理由によって自分の行為を反省するでしょうか。被害者との関係が断ち切られれば、加害者は自分の犯罪の意味を実感できないでしょう。
 道徳が法化されることの重大な問題点が、ここに表れています。
 
■ 内的理性から合意へ
 以上の問題点はどのように克服されるべきでしょうか。
 まず、道徳の公平性と普遍性は、個人の内的な理性によってではなく、人間どうしの対話と合意によって担保されるべきです。あるルールが公平で普遍的なものになるには、万人がそのルールの決定に参加することが必要です。理性とは個人的なものではなく、集合的でなければなりません。ロールズに代表される現代の契約社会説的な正義論は、この路線を進めたものと理解できます。
 しかしながら、ロールズの正義論も、法化された道徳の問題点を共有しています。ロールズは、個人を同一の権利と義務を与えられた理性的な人間と見なします。そこでの人間の繋(つな)がりは、匿名の諸個人の繋がりとしてしか想定されていません。ロールズの正義論は、公平性と社会的分配の重要性を強調した点で重大な意義を有していますが、他方で、その人のもつ具体的な歴史的背景、文化的・社会的アイデンティティ、個人に固有のニーズ、感情的な心の働きへの配慮が抜け落ちてしまっています。ロールズ的な正義の前では、個人は脱個性化され、自己と他者との差異は消失してしまいます。
 
■ 道徳の医療・看護モデル
 法と無個性な諸個体。そして、個体どうしは法によってのみ結びつく。カントやロールズで想定されているこうした社会像は、近代社会のあり方を表現していると同時に、原子と自然法則で宇宙を説明するニュートン物理学と同型でもあります。
 これまでの道徳観がニュートン物理学をモデルとしているならば、現在では、これとは異なったモデルの道徳観が求められています。拙著では、近年、医療・看護をモデルとした道徳観が興隆していることを指摘しました。このモデルでは、善悪は健康との類比で理解されます。
 医療・看護の目的は健康の回復にありますが、「健康」は実に興味深い概念です。
 健康は主観的なものではありません。もちろん、激しい苦痛や不快を感じていないという主観的状態は健康の必要条件でしょうが、それだけでは健康とは言えません。自己保存がうまくいき、環境の変化への適応度が高く、活動が盛んとなっている状態が健康と呼ばれるのであり、その意味で健康は客観的に測ることができます。一方で、どのような状態が健康であるかは、人によってかなりの差異があります。人と比較して平均的であることがすなわち健康だとは言えません。むしろ、ある人が健康かどうか知るには、その人の心身状態を通時的に参照する必要があります。健康は、人それぞれに個別的で個性的なものです。したがって、健康とは、客観的であると同時に個別的な規範なのです。
 医学は、客観的であることが法則的であることを意味する物理学とはまったく異なる科学です。医学は、法則的な学問ではありません。健康には目安はあっても、法則性などありえません。個体によって病理の発現の仕方は多様であり、個々人の心身的な特異性に応じた療法が求められるのです。
 看護も同様に個別的なものです。看護とは、患者の成長がもつ方向性に導かれて、その人それぞれのニーズに献身をもって応答することです。看護では、他者に共感的・感情的にコミットし、その人が生きている世界を、その人の観点から理解することが求められます。(アフォーダンスという環境の特性を知ることは、その人の生きている世界を知ることに他なりません)。しかしそれは、患者とまったく同じ反応をすることではありません。看護者と患者とは、患者の成長や自己実現という同じ目的にかかわっている独立した人格です。むしろ異なっているからこそ、当人を援助できるのです。同じ考えが、医療・看護のみならず、福祉や教育などの分野でも成り立つでしょう。
 道徳性は、法則性を探求する物理科学ではなく、医療と看護をモデルとして理解すべきです。
 
■ 身体命法
 善悪とは、人間の行為を形容する性質です。ある行為が善であるのは、行為する側がそれを主観的に善と判断したからではありません。そうであるならば、いかなる行為も恣意(しい)的に善とされてしまいます。行為の善悪は、対象となる人への効果によって客観的に測るべきものです。しかし他方、善悪は、対象となる人への個別的・特殊的な効果を無視して、一律に決定することはできません。何が利益となり、何が成長に繋がるかは、人それぞれの特性や状態に応じて異なるからです。
 善悪は、臨床的な判断のように、その対象となる人の個別性と特殊性、さらに時間的な経過を追いながら判断されるべきです。ある医療行為が有効であるかどうかは経過を見る必要があるように、行為の善悪も即座に判断すべきものではありません。ある行為が善であるか悪であるかは、行為の対象となる人々の成長に貢献するものか、それともそれを阻害するものであるかによって、個別的かつ客観的に、そして一定の時間の経過のなかで定まるのです。善意とは、したがって、継続的にある人の成長に貢献しようとする意図のことです。悪意とは、その逆の意図のことです。
 このような人の個別性に配慮した倫理観は、身体化された倫理だと言えます。性、人種、年齢、経歴などの具体的文脈において相手を捉えることは、その人を身体的存在として捉えることに他なりません。また相手のニーズを共感的に察して、相手の成長に情動的にコミットしてゆく行為は、身体を持つ者のみに可能です。
 したがって、道徳とはすぐれて間身体(かんしんたい)的なものです。健康をモデルとする倫理は、従来の法化した倫理とは異なり、相手の身体からやってくる声に耳を傾け、共感する態度を求めます。それは「定言命法」ではなくて、「身体命法」に従う倫理だと言えるでしょう。
 大岡昇平は、『俘虜記』(新潮文庫、一九七七年)の中できわめて興味深い道徳的考察を行っています。大岡は、戦争中、ジャングルに隠れている自分の眼の前に現れたアメリカ兵をついに撃たなかったのはなぜか、と自分の気持ちを分析しています。彼がアメリカ兵を殺さなかったのは、その健康そうな顔を見て、その声を聞き、その仕草に若々しさを感じたからでした。彼は敵兵に身体的に共感したのです。大岡はこう書いています。
人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的な理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。(三七頁)
 私はこうした極限状況に立たされた経験はありませんが、ここに表現されている身体命法にこそ道徳の最終基盤があるように思えてなりません。道徳的実践の出発点は、身体命法の感受性を高めることにあるのではないでしょうか。
 
(こうの てつや・立教大学文学部教授)
著書に『〈心〉はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学』NHKブックス
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