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情報誌 アンジャリ
「私たち」を再生するために

井手 英策
痛税感の強い日本人
 日本人ほど増税が嫌いな国民はめずらしいかもしれない。1989年に消費税が導入された。だがこのときは、所得税と法人税を減税したから全体では減税だった。また、97年の消費増税は、94年以降続けられた所得減税の穴埋めだった。小泉政権期に所得減税が停止されたが、このときも法人税の減税が繰り返された。じつは8%への消費増税は33年ぶりの実質増税だったのだ。

 減税のために増税する国。33年も本当の意味での増税ができない国。こんな国は先進国のどこを探しても見つからない。それどころか、久々の純増税をやったはいいが、当時の与党だった民主党は選挙で惨敗し、高い支持率を誇る自民党政権でさえ二度続けての増税延期に追い込まれる始末だ。

 どうしてこんなに日本では増税が難しいのだろう。租税負担が高いのか。いやそんなことはない。消費税が10%に引き上げられたとしても、租税負担率と社会保険料負担率をあわせた国民負担率はOECD(経済協力開発機構)の平均にさえ届かない。

 国民負担率が低いのなら、税の痛み、「痛税感」は抑えられそうなものだ。ところがそうはならない。『国際社会調査プログラム(International Social Survey Programme)』を見てみると、高福祉高負担で知られるスカンジナヴィア三国(以下、北欧)の人たちよりも、日本人のほうが「中間層の税負担は重い」と感じている。一方、富裕層や低所得層の税負担に関しては、日本人のほうが北欧の人々よりも軽いと感じている。日本と北欧の決定的なちがいは「中間層の痛税感」なのだ。

 税の痛みには三つのポイントがある。

 まず、税は他者への信頼に支えられる。「だれかが脱税している」「政府は税の使いかたをいい加減に決めている」、もしこのように考えられれば、当然、税の痛みは強まる。人間不信はまさに「痛税感」の源泉なのだ。

 第二に受益と負担のバランスである。読者の皆さんは、消費税が8%にはなったが、何もいいことがなかったと感じていないだろうか。いや、その前に、5%から10%へと消費税が引き上げられるうち、社会保障の充実に回されるのが1%で、しかもほとんどが貧困対策であること、残り4%が借金の返済であることを皆さんはご存じだっただろうか。おそらく答えはNOだろう。受益感がほとんどなく、税の使いみちさえよくわからない状況のなかで、増税は苦痛以外の何ものでもない。

 第三のポイントとして、社会の分断性をあげたい。私たちは国際的にみて、自由・平等・愛国心・人権といった「普遍的な価値」を分かち合うことのできていない国民である。さらに、所得階層間、世代間、性別間、雇用形態間、地域間など、数多くの分断線が社会に刻み込まれている(井出英策・古市将人・宮崎雅人『分断社会を終わらせる――「だれもが受益者」という財政戦略』筑摩書房、2016年)。目の前のだれかの苦労を見て、「仲間の困難」だと受けとめ、その人のために税を払うのか。あるいは、自己責任だと突き放し、困っている人をさらなる就労へと追い立てるのか。価値を分かち合えず、人間と人間の関係が弱り切った社会では、見知らぬ他者のために税を払うことは拒否されるだろう。そう、税の痛みとは、分断された社会の裏返しなのである。

袋だたきと犯人探しの政治
 税の痛みだけではない。財政支出の面でも人びとはお互いを傷つけ合っている。

 日本では、子育てや教育、病気や老後へのそなえ、そして住宅といったさまざまなニーズを、政府に頼ることなく、自分たちの「勤労」と「貯蓄」でまかなってきた。また、女性は専業主婦となって子育てや介護の責任を担ってきたし、会社も、住宅や医療といった福利厚生のために、法定外福祉費を負担してきた。日本の福祉国家を支えたのは、自助努力と家族や企業の助け合いだった。

 経済の成長が予想できた時代はいい。政府が私たちのくらしの面倒を見てくれなくとも、「自己責任」「自助努力」で人々はくらしていけたからだ。

 だがこの前提は崩れた。世帯所得は、減少がはじまる直前の1996年とくらべて18%も低下した。この間、共働き世帯が930万世帯から1077万世帯に増え、専業主婦世帯の数は943万世帯から720万世帯に激減した。二人で働くようになったのに世帯収入は二割近く落ちたわけだ。

 所得の減少がすすむなか、近年、家計貯蓄率はマイナスを記録するようになった。高齢化がすすむと貯蓄の取り崩しがはじまるから、貯蓄率がさがることはしかたない。とはいえ、貯蓄率がマイナスというのは明らかに異常だ。貯金の減少で将来へのそなえを持てない国民は未来に不安を覚える。内閣府の世論調査では、老後に不安を感じる人の割合は九割近くに達した。これも異常な数字だ。

 人びとは深刻な生活不安に襲われている。だが不幸なことに、そのプロセスで財政危機が叫ばれ、支出削減の動きが強まった。

 争点はどの予算から削るかだ。日本の予算は、義務教育、外交、安全保障を除き、ほとんどが「だれかの利益」になっている。自分の予算を削られないためには、ムダ使いをしている「だれか」を探し出し、その人たちを袋だたきにするのが合理的だ。政府もメディアも、公共投資、特殊法人、公務員や議員の人件費、地方自治体への補助金、生活保護、医療費と、次から次へとムダ使いのレッテルを貼(は)り、支出削減を推し進めていった。

 まさに「袋だたきと犯人探しの政治」だ。中間層が所得を落としていくなかで、弱者へのやさしさは次第に失われていった。日本社会は、先進国のなかでも明らかに落差の大きな社会なのだが、格差是正の必要を感じている国民の割合は、先進国のなかでかなり低い数字となっている。

 他者の痛みを自分たちの痛みとは感じられずにバッシングと犯人探しを続け、弱者に対して自己責任を声高に叫ぶ社会。私たちの社会は、まさに分裂寸前の状況にある。

共同行為としての財政
 昨日よりもすばらしい今日、今日よりもすばらしい明日を人々は夢みてきたし、それを私たちは進歩と呼んできた。だが、私たちの社会は、この進歩の軌道から大きくはずれ、いまだ経験したことのない、閉塞感(へいそくかん)と生きづらさに満ちた社会となろうとしている。

 新たなあゆみを進めようとするとき、私たちはまず、ものごとの原点にかえり、あるべき姿を確認することからはじめなければならない。

 社会はなぜあるのか。それは「ある共同の目的を遂行するため」である。トマス・ペインは『人間の権利』という本のなかでこう述べている。「人間相互間に、また文明社会の各部分のあいだに存在する相互依存と互恵的利害関係とは、その社会を結び合わせるかの偉大な連鎖を作り出す」と。

 個人では実現できない「生きる」「くらす」という「共通のニーズ」をみたすために、別言すれば「共同の需要」を「共同で充足」しなければ人間は生きられない/くらせないからこそ、私たちは依存しあい、互恵的な関係を作りだしてきたのである。だからこそ社会が存在しているのである。

 歴史をひも解いてみれば、この事実はよりはっきりする。縄文時代の日本人は、過酷な自然環境のもと、生きるという共通ニーズをみたすために助け合い、平等な関係を構築していた。あるいは、江戸時代に村と村の間で作られた組合村は、河川や山林などの共同利用、領主から命じられる土木工事、よそ者との間で起きるトラブルへの対応など、さまざまな生活のニーズにこたえるために結成された。現代のNPOやボランティア、町内会や自治会も同様だろう。人間は「共通のニーズ」をみたすために「共同行為の領域」を作ってきたのである。

 近代より古い時代、「生活の場」と「生産の場」は重なり合っており、私たちはコミュニティ内部での互恵関係によって、生きる/くらすためのニーズをみたしてきた。

 だが、市場経済が広がり、貨幣がコミュニティに入り込んでくると、人びとはお金をかせぐために労働者となり、都市へと移動していった。「生活の場」と「生産の場」は分離し、自給自足ではなく、お金をかせぐことで財やサービスを買い、生存・生活のニーズを自力でみたす時代が訪れたのである。

 だが、共同行為の領域が小さくなった社会とは、病気やけがをすれば、生活の危機が即座にやってくる社会でもある。だからこそ人間は、「生活の場」と「生産の場」をこえた新しい場、あらたなる共同行為の領域を作りだした。それが公の場であり、財政である。

 整理しよう。生産の場と生活の場が分離し、ニーズの個人化がすすみ、市場経済化がコミュニティの共同行為を弱らせていった。だが、私たちは、生きる/くらすための共通のニーズを税でみたすしくみ、「財政」を作り、生活防衛をおこなったのである。

人間の善意が格差の原因を作る
 このように社会や財政の起源を知れば、ひとつの方向性が見えてくる。

 「分断社会」とは「人びとの間で目的が共有されず、共同行為が成立しない状態」をさすといえそうだ。だからこそ、社会のメンバーに共通するニーズを探しだし、そのために必要な財源をみなで負担し合うことで、もう一度、財政を「社会全体の共同行為」へと鋳直すことが大事だということになる。

 勤労と貯蓄を美徳としてきた私たちは、政府のご厄介(やっかい)にならないこと、困っている人に限定してお金やサービスを給付することを「善」だと考えてきた。だから、生活保護だけではなく、大学の授業料、医療費、介護費、幼稚園や保育園のサービス、ほとんどが困っている人たちだけが無料で、その他の人びとは税と自己負担を余儀なくされている。

 だが、この手法は、「共通のニーズ」を「共同でみたす」という社会や財政の原理から大きく外れている。だからこそ、一部の人たちが受益者になる一方、受益にとぼしく、負担だけをもとめられる中高所得者層が格差是正に反対の声をあげるわけだ。これは「再分配の罠」と呼ばれる現象である。弱者への善意が弱者の生活苦を生むという「悲しい負の連鎖」でもある。

 給付面だけではなく、税金の面でも同じ問題が起きる。所得税では累進性が採用され、課税最低限以下の人たちは、税を払わなくてよい。あるいは、法人税は、事実上、大企業への課税が中心となっているし、相続税では、多くの資産を持っている人びとが課税の対象とされている。だが、低所得層が税を払わずにお金やサービスが給付されていれば、ここでも「再分配の罠」が生じてしまう。納税者は、社会的弱者が不正に受給していないか、ムダ使いをしていないか、疑心暗鬼になる。

 困っている人を助けようというのは、道徳的に見れば明らかに正しいことだ。だが、こと財政に関しては、弱者への善意は対立の源泉となりうる。再分配の罠によって格差はさらに広げられる。だが、左派・リベラルは、弱者救済の声をいっそう強めるしかない。彼らが政治的に支持されない背景にはこうした負の連鎖があるのである。

財政の原点にかえろう
 ここで財政の原点にかえってみよう。医療、介護、教育、子育て…だれもが必要とするサービスについて、できるだけ広く社会のメンバーが受益者になり、同時にできるだけ広くだれもが負担者になるようにするのだ。

 この改革案にはさまざまなメリットがある。まず、中高所得層が受益者になれる。あらゆる人びとが将来不安から解放され、痛みと喜びを分かち合うしくみだから、中高所得層はその政策に反対したり、低所得層を攻撃したりする理由を失う。全員が受益者ということは、既得権者がいなくなるということだから、犯人探しの政治は不要になる。

 それだけではない。所得制限をはずしていけば、所得審査に費やされる行政の膨大な事務が大幅に削減される。そして何より、結果的に所得格差を小さくすることが大きい。左図を見てほしい。低所得層が税を負担し、中高所得層が受益者となっても格差は小さくできることはほとんど知られていない。

 低所得層を受益者にし、中高所得層を負担者とするこれまでの格差是正はなくなるのか。いやそうではない。国は憲法25条1項にある生存権を保障しなければならない。だから、富裕層に税をかけ、貧困対策をおこなうことは理にかなっている。

 だが、問題は、この方法が再分配の罠を生み出してしまう点である。だからこそ、もうひとつの方法、すなわち全員をサービスの受益者にし、全員が負担者となるしくみ、財政システムの原点回帰が重要になる。

 さまざまなサービスを提供しているのは地方自治体だ。人間と人間の顔が見えやすい地方財政のなかに新しい財政システムが根づけば、人間を所得で線引きすることなく、共同行為としての財政を再構築できる。私たちのくらしだから、私たちが変える。この「私たち」の再生がなければ、国レベルでの格差是正などとても成立できないだろう。

 もう一度確認しよう。生存や生活のニーズをみたすために人間は助け合ってきた。だからこそ、財政を起点として、痛みと喜びを分かち合い、利害関係を共有できる空間、そして「私たち」を再生することが不可欠だ。人間はひとりでは生きていけない。だからこそ、財政という「満たし合いのシステム」が作られた。犯人探しや袋だたきに血道をあげるのではなく、お互いが協力し合うことが、他者の、そして自分の喜びとなる、そういう制度改革をめざすことこそが、人間である私たちがめざすべき方向性なのではないだろうか。  

 

(いで えいさく・ 慶應義塾大学経済学部教授)
著書に『財政から読みとく日本社会~君たちの未来のために~』岩波書店

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