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情報誌 アンジャリ
我、未(いま)だ「蘖(ひこばえ)」につき

志人
 私(わたくし)は言わば杣人(そまびと)として山仕事に従事する樵(きこり)である。同時に「詩人」ともつかぬ「詩(うた)詠み人」を心の友としている。

 杣人は人間が滅多に通らぬ獣道、或いは杣道を往来する。対し「詩(うた)」は蝶道や目に見えぬ鉱脈を探る様(よう)な、或いは五線譜から外れたおたまじゃくしが自由に跳ね踊る瞬間とでも言い表そうか。互い掴(つか)みどころがない程に奥深い深山幽谷の中で出会(でくわ)す。先人の付けた株跡や刈り跡は、「懐かしい未来」である。たった独りきりで山行きの際にも、どこからか観られているような、見守られているような錯覚に陥る。それは野生動物や野鳥の寡黙(かもく)な眼(まな)差しにも似て、ご先祖様の残像が辺りを包み込み、独りきりでもちっとも寂しいとは思わぬ不可思議な心持ちとなる。
 「ああ あの樵がわしと同し道を通っとる
       何十年ぶりじゃろうか ここに人が現れたのは
                                  懐かしいのう」
 そんな声ならぬ声が古き切り株から聞こえて来る。春は黒文字の青緑の葉の隙間に田打ち桜の白、初夏は閑古鳥の時報、晩夏はひぐらしの始業終業チャイム、秋は零余子(むかご)の雨の連弾、冬は雪割草と蕗(ふき)の薹(とう)、福寿草を目にし、耳にし、時の経過を察知する。同僚の鹿鳴(ろくめい)の如き甲高い呼び声を合図に山を一斉に駆け下り、鉈(なた)袋に結びつけられた熊鈴の音が互いに近くになった事で、一同の無事を知る。明日の持ち場の残像を頭に叩き込み、我先(われさき)にと待ち焦がれた夕飯めがけて一気に下山するのである。我々は胸に、腹に、優れた時計を持っている。杣人が森の中で奏でる音楽は「朝に開き、夕にしぼむトランペット」だ。
 “捉(とら)えどころの無いものを捉えようとする”と、そこに詩(うた)が現れる。妖怪でいうならば「ぬらりひょん」であろうか。瓢箪(ひょうたん)で鯰(なまず)を押さえるような行為である。人が無意味であると断定するものにあえて意味を見出す様な無謀な愚行。しかしどうだろうか、現に人間は名も無(な)き花に命名し愛(め)でる。与えられた名前を知らずともその容姿端麗(ようしたんれい)さに、風光明媚(ふうこうめいび)な景観に目を奪われ息を飲み心を打たれる。未だ名も無き花も星も無数に在るのだろう。
 「父さん、あそこに流れている雲を掴んでみておくれよ
      ほれ あの星を食べてみたいから採って来てくれないかい?」
 子供の純真無垢(じゅんしんむく)な疑問に対し「そいつは無理な話だ」と決定付けるには早く、その不可能を可能にする所謂「雲を掴む様な」話、それが出来るのは「詩(うた)」であると私は確信している。
 だが時に沈黙が言葉よりも遥(はる)かに物を語る場合がある。“瞬間の連続を永遠に司(つかさど)る”人間が起こす摩擦により「言葉を超えた芸術作品」が生まれる。例えばそれは「彫刻」である。一見して永眠したかの様に思える材木に彫り手が命を再度吹き込み新たな魂が宿る。死を削り、永い眠りから揺さぶり起こし、永遠の生を授ける。芸術家とは医師である。それも不老不死の妙薬を心内に持つ延命治療に長(た)けた名医である。
 読者の中には「樵・木こり」という職種について、環境破壊へ加担している仕事としての見解をお持ちの方もいらっしゃるだろう。私はそうは思わない。立木として枯れてゆく運命の、放置され誰も気に留めなくなった木々の運命を担う大切な天職だと思っている。立木はやがて枯れ、折れ、そこから「蘖(ひこばえ)」が生まれるものもある。世界中の山里はその「蘖」により保たれてきた。木の生命は太陽の巡り日照時間と月の巡りに大きく関わりながら循環している。木の休眠期と月の巡り(新月伐採などもある)伐(き)り旬(しゅん)に寝かされた木々は、搬出され、やがて材となり我々の住居や仏閣、お宮さん、お神輿(みこし)、一枚板等へ姿を変え、立木本来の寿命よりも遥かに長い年月を生きることになる。木は伐(き)られたら命を絶たれる訳では無い。優しき人間の手にかかることにより永年に亘り生き続けることができる。「一物全体」の言葉通り、檜(ひのき)などは桧皮葺(ひわだぶき)として樹皮までも使われる。余すこと無く。
 しかし我々の職業柄、より意識しなくてはならない部分が有(あ)る。それは「生態系」である。山の下刈りや除伐など、特に人工林では無く天然林の山に手をつけなくてはいけない場合は、また別の慎重さを要する時がある。それは「野生動物」の食べ物となる実の生(な)る樹木や好む樹皮、巣、ヌタ場、熊棚等(など)が在(あ)る位置や条件を把握しておく必要がある。無闇矢鱈(むやみやたら)に裸山にして生態系のバランスを崩すのも、この小(ちいさ)き我の手にかかっている。樵の全員が全員そうでは無いが、少なくとも私は「生かされている立場」という意識を根底に持っている。こちらの地方での方言ではあるが、「いらわん方がええ」という言葉がある。余計な事はしない、後(あと)で身に帰ってくるという考えの元である。重力に逆らえても、自然には逆らえない。皆伐地帯の萌芽更新(ほうがこうしん)の力を見れば一目瞭然である。雑木林の根張りや天然林の自然樹形は“自由”そのものである。勿論、その「生態系」中には人間も含まれている。しかしながら主役は決して「人間」では無い。全ての生命である。この場合、我々(われわれ)人類は「生態系の一員」として独りよがりにならぬ視点・視野を持たなくてはならない。土壌中の菌類、微生物、所謂キノコの担子菌門(たんしきんもん)に至るまで、足の裏にまで心を通わすことができるかが、本当の意味での「杣人」となりうるかどうかだと思っている。なんにせよ、人も森も「無関心」にされてしまっては寂しさだけが募るばかりである。多くの森は今、人間から敬遠されている様に思える。とても近い距離に居るはずなのに。

 私は未だ未熟な「杣人」であり、同時に未熟な「詩詠み人」である。自らをそう名乗ることにおこがましさをも感じている。この未熟な「杣人」として見渡す限りの山々に抱かれ、樹雨(きさめ)に打たれ、木を抱き水を吸い上げる音と大地の鼓動を感じ、足の裏に無数の生命の息吹の温度を感じ、歩みを続ける。この未熟な「詩詠み人」として自然界で拾った無量大数の言葉達を胸に、雲を掴み、星の欠片(かけら)を食(は)み、月に腰を掛け、果ては宇宙の外側から過去の光に乗せられて現在の地球に降り立つ様な。人間界の両面性だけでは語れない、時にとんでもない角度から観る「子供のふとした疑問」を忘れずに。一冊の本を閉じ、目を瞑(つむ)り、重力に負けて夢に想いを馳(は)せる、ごく単純な人間として。未完成の感性を大切にしながら。  

 

(しびっと・詩人・杣人)

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