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親鸞仏教センター通信
第59号 December 2016
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語りえぬものを前にした沈黙

親鸞仏教センター研究員 長谷川 琢哉
 姪(めい)が四歳のときだった。私が年に一度ほど帰省する際に、彼女はいつもたっぷり遊ぶ心づもりで待っていてくれた。しかし、そのときはたまたま私に所用があり、姪のために時間を取ることができなかった。そのことを姪に告げると、一言「何で!」と叫び、その後押し黙ってしまった。

 なぜだろうか、私はそのときの一言と、その後に続いた沈黙に強い感銘を受けた。おそらく姪なりに、私の所用が動かせないものであることを理解したのだろう。しかし、そのうえで、せっかく楽しみに待っていたのに遊んでもらえないのは納得いかなかったのだ。つまり、「何で!」というのは、どういう理由で遊んでもらえないのかを問うものではなく、どうしてこんな事態が自分の身に振りかかったのかを問うものだったのだ。そしてそれについて、これ以上何を言ってみたところで仕方がない。姪はそのことを理解したからこそ、その後言葉を閉ざしたのだ。

 以上は、もちろん大人である私の推測である。しかし、四歳の子どもが「どうしようもないこと」を理解し、不満を感じながらも沈黙するという場面を見たとき、私には哲学者ウィトゲンシュタインの言葉が自然と思い起こされた。

 そもそも子どもたちは、自ら望んで生まれてくるわけではない。容姿も才能も境遇も、何一つ選ぶことはできない。しかも、常に有限な存在として、死という絶対否定にさらされている。これは、不条理だと言って良い。そうであるなら親になるということは、その不条理な生存を、子どもに強いるということだ。

  語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。『論理哲学論考』(岩波文庫、野矢茂樹訳)の末尾を飾る有名な命題である。この書でウィトゲンシュタインは、世界のなかで生じる出来事についての有意味な言明がいかなるものであるのかを考察した。そしてそのうえで、真偽を問うことができないような事柄について、人は沈黙を強いられると説いたのである。ただしウィトゲンシュタインは「語りえぬもの」など存在しないと主張しているわけではない。彼はこうも述べている。「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」、と。

 私たちは世界が有意味であってほしいと願っている。だから四歳の子どもでも、不条理な事柄を前にしたとき「何で!」と叫ぶのだ。この問いは人間の理性、さらには社会正義とも結びつくような、きわめて健全なものである(世界はいかにあるべきか?)。しかしながら、世界があるというそのことがすでに神秘であるとすれば、「何で!」という問いを発する私たちの理性は、最終的には答えに行き詰まってしまうだろう。そして、そのときに静かに沈黙するということ。理性の限界を受け入れるということ。ここに宗教的なものが開けてくるのかもしれない。

 私は姪の一言から以上のようなことを考えたのだが、ただ一つ心配なのは、大人になった姪が万が一この文章を目にしたとき、呆(あき)れてしまわないかどうかである。
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