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親鸞仏教センター通信
第23号 September 2007
[巻頭言]他人(ひと)を傷つける言葉
親鸞仏教センター研究員  山本 伸裕
 「貧乏人は麦飯(むぎめし)を食え」―かつて、この国のある首相はそう言ったとか。カネがなければ質素な食事で糊口(ここう)をしのぐ。これは、ある意味、やむを得ざる成り行きである。にもかかわらず、この発言が多くの人びとに違和感を与えるのはどういう理由(わけ)か。
 倫理・道徳というのは、必ずや宗教に立脚しなければならない、と強く主張したのは清沢満之である。そこに含意されているのは、「論理的正しさ」と「倫理的正しさ」とは必ずしも一致しないということである。「宗教」とは有限な目的へと向かうものではなく、どこまでも無限の理想に向かうものである、というのが清沢の宗教定義である。このような「宗教」に立脚して成り立つ道徳(宗教道徳=真正(しんせい)の道徳)の見地からすれば、「貧乏人は麦飯を食え」というものの謂いいは、けっして許されるものではない。宗教道徳の理想は、自分が麦飯を食うことになったとしても他人には麦飯を食べさせるような貧を与えないということでなければならないからである。
 この私に当てはまる真理は、同様に他人にも当てはまるのでなければならないというのは、論理の世界においてのみ妥当することである。宗教的真理にとって決定的に重要なことは、真理というものは一人ひとりの主観においてしか成り立たないということである。
 清沢は「宗教の門にはいった者は、自分を非常に侮り、非常に軽するのである」(『清沢満之全集』第6巻125頁、岩波書店)と述べている。そのようにむしろここでは、この私という存在は徹底的に軽んじられることになる。このことは、「われを滅する」ということにほかならないのだが、それは、どこかこの私という存在を超え、なおかつそれを包むような大いなる存在を感じることなしにはありえないことに違いない。
 志賀直哉は無限に向き合うときに感じる己(おのれ)の卑小(ひしょう)を、「ナイルの水の一滴」に見立てて次のように述べている。
例えて云えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前(さき)にもこの私だけで、何万年遡(さかのぼ)っても私はいず、何万年経(た)っても再び生まれては来ないのだ。しかも尚なおその私は、依然として大河の一滴に過ぎない。それで差支(さしつか)えないのだ。
 実際、志賀にとって、「芥子粒にも満たない」ような自己の卑小さを「軽する」ことは、同時に大いなるものとの出遇あいのなかの救いでもあったのである。
 こうした感得のなかから他人に対して言葉が発せられるときには、言葉はたんなる論理性・客観性の次元を超えたものになるはずである。論理的にはいくら正しくても「あなたにだけは言われたくない」ということは多々ある。「親鸞一人(いちにん)がためなりけり」という『歎異抄』の言葉は、相対性を脱した非対称性の自覚を絶妙に言い当てているのである。
 われを軽んずることで道徳が成り立ち、われを軽んずることで逆に救われる。いま問い直されるべきは、そうした宗教に基づく道徳の論理なのではないか。
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