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親鸞仏教センター通信
第52号 March 2015
夢うつつ
親鸞仏教センター研究員 中村 玲太
 「夢」というのは仏典中において実態のないものの喩(たと)えとして多く用いられている。そして、人生は夢、幻の如くだとも言われる。思えば今日は一体何をしたのだろうか。いやここ十年あまり何をしてきたのだろうか、とふと振り返ることがある。人生をすり減らしながら何も残っていない気がする。実在しているのかすら疑わしくなるこの人生は、まさに夢のようである。
 夢と人生について忘れられない言葉がある。詩仙李白の「春日酔起言志」(春の日に酔より起きて志を言う)の一節である。

処世若大夢 胡為労其生
所以終日酔 頽然臥前楹
 世に処(お)ることは大いなる夢に若(に)たるに
 胡(な)ん為(す)れぞ其の生を労(つか)らすや
 所以(ゆえ)に終日(しゅうじつ)酔い
 頽然(たいぜん)として前楹(ぜんえい)に臥(ふ)す
 夢幻のような一生に対して、李白は「胡為労其生 所以終日酔」としている。この句について、吉川幸次郎・三好達治著『新唐詩選』(岩波新書)には、「夢をせいぜい夢らしくするのが、人間のしごとのように、私には思える。だから私は、人生という大きな夢を、より多く愉快にするために、一日じゅう酒をのんでいるのである」と解説する。名句、名解説であると思う。ただ、李白は酔いきれていたのであろうか。勝手な想像かもしれないが、李白の飲酒には届かぬ夢に向けての祈りのようなものを感じてしまう。
 李白がどうであれ、夢心地は続かない。朝には夢が覚める。あまりにも当たり前のことを言っているが、夢は覚めるものだと否が応でも気づかされてしまう。「朝は好きじゃない」ではじまる森博嗣『トーマの心臓』(メディアファクトリー)にはこんな一節が続く。

無礼な眩(まぶ)しさに目を細めても、自分に降りかかった既成の運命に心を閉ざすことができない以上、どうしたって憂鬱(ゆううつ)になる。ただ、その憂鬱さが躰(からだ)中に染み込んだあとには、くすっと笑いが込み上げてくることもある。不思議な反転だ。
 目覚めの悪さも相まって、本当に朝は厭(いや)になる。もう目覚めなくともよかったのではないか。朝はそんな頽廃的(たいはいてき)な空気が流れる。しかし、どうしたことか、通勤しているうちには厭な気持ちも隠れ、平常心に戻っているから不思議である。
 もしかすると、一日のなかで、人生に嫌気がさしているとき――それはすなわち人生を少しでも直視しているとき――は朝だけなのではないか。そう考えると朝の嫌気も大切かもしれない。嫌気とつき合いながら、この現実を問うていきたい。
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