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親鸞仏教センター通信
第53号 June 2015
正 論

親鸞仏教センター研究員 藤原 智
 毎日の生活のなかで、さまざまな言葉が自然と耳に入ってくる。それぞれの人が、それぞれの立場で真剣に物事を考え、正しいと思うところを述べているのだろう。そのこと自体には、敬意を払いたい。ただ、そうして語られるいわゆる正論が、ややもすると他者を批判するために語られていると感じることが少なくない。それは私だけであろうか。
 もちろん、正論大いに結構である。そしてさまざまな場面で、議論が尽くされていくことは大事なことである。しかし、その正論が他者を断罪するために語られるとき、威勢よく正論を語るその人がまるで他者を裁くことでしか自分を保つことができないかのように見えてしまう。そういうことがある。言葉の正しさに翻弄(ほんろう)され、自分を見失ってはいないだろうか。自分は正しい、あの人たちは間違っている、誰かに脅迫でもされて、そう主張せずにはおれないかのように。もしそうであれば、それは一体なぜであろうか。一旦立ち止まって、じっくりと自分を省みる時間が必要なのではなかろうか。
 とはいえ、ものすごいスピードで動き続ける現代である。悠長に立ち止まっている余裕なんてないのかもしれない。そんなことを言えるのは暇人だからだと。しかし、だからこそあえて言う意味もあるであろう。
 そんなとき、今さらながらに考えさせられたのが、有名な『歎異抄』の次の一節である。

  まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。
(『真宗聖典』640頁、東本願寺出版部)

 歴史の審判を潜(くぐ)って私の前に現れたこの遺訓は、すでに一個人の述懐を超えた静寂の響きがある。それは私の小賢(こざか)しい考えなど頑(がん)として拒否をして、私の前に立ちはだかる。古来、どれほどの人がこの言葉の前に立ち尽くしてきたであろうか。しかし、この言葉から目を背けることもできなかったのである。なぜなら、まことに私がそこにいたからである。
 善し悪しでものを見ることしかしていない。それが当然だと思っている。その人間の姿を在るべからざるものとして、古賢は歎きを表している。そしてその言葉の根元に、より深い悲しみの眼があることを知らない。知らないというかたちでしか遇(あ)うことができない。それは人も、私も同じなのだと。それこそ人間のまことなのだと。
 その慚愧(ざんき)を私も人も抱えている。いつでもその慚愧の場に立ち返って、物事を考え、言葉を紡いでいければと思う。
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